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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

増毛郡増毛町別苅 別苅(べつかり)恵比須神社 ~文政年間(1818-1831)の狛犬~

 正式名称は恵比須神社(えびすじんじゃ)だが、アチラコチラにあることから便宜上、地名を付けた形で以降呼ぶこととします。

 別苅恵比須神社(べつかりえびすじんじゃ)は、北海道増毛郡増毛町別苅にある神社で旧社格は村社。御祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)で例祭日は6月20日。別名「別苅神社」

 留萌から増毛を抜け海岸線を通ってきた道もこの先からは山側のトンネルが続く道へと変わります。昔は雄冬峠がありクネクネ曲がった走ってても飽きの来ない道でしたがトンネル開通とともに廃道となり、現在は直線の長い楽なトンネル道となりました。神社からはカムイエト岬とその断崖が見えます。

別苅地区

 かつての別苅(べつかり)村であり、明治初年(同2年8月から同6年の間)から明治33年(1900)まで存続した村で、明治33年7月に増毛村を含む九ヵ町六ヵ村の合併により増毛町となり、別苅村は消滅しました。

 南西隣は岩尾(いわお)村、北東隣は増毛村。明治六年の「天塩国地誌提要」に別苅村とみえ、平民六五戸・アイヌ九戸、平民男一五四人・女一二一人、アイヌ男一二人・女一五人の定住があり、寄留は平民男三三四人・女一九人であった。同一二年の「共武政表」に戸数八三・人口三五三、馬四、船舶三六一、物産は鰊・鮭・鮑・煎海鼠・馬鈴薯とある。同二四年には二六八戸、男七五九人・女五九四人、馬九、五〇石以上船一・艀漁小廻船六〇六となっている(徴発物件一覧表)。


増毛町史跡ガイドマップ「24.別苅発祥の地」から(大別苅漁港近くに標柱あり)
ここには、1750年頃に松前の商人である村山伝兵衛によって、出張運上屋が設置されました。
これを機に別苅地域にも本州から多く和人がやってくるようになり、集落としての定住が進んでいきます。
運上屋の裏の小高い場所には恵比寿を祀り、漁場の守護神として神社を建立しました。この恵比寿神社は明治9年に現在の場所へと移設されています。
別苅という地名が確認できる一番古い資料を探していくと、幕府が全国の石高を調査した元禄郷帳に「ベツカリ」という地名が見つかります。「崖のこちら側」というアイヌ語「ペシ・トゥカリ」が元になっていると考えられます。

 地名由来はアイヌ語で、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では以下の通り。
ペㇱトゥカリ<pes-tukari>崖壁の此方(崖壁の行き留り) {断崖・の手前}  〈正にその地形である。〉永田方正地名解〈山田秀三補足説明〉

「東西蝦夷山川地理取調図」 松浦武四郎 安政六年

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き

大正8年測図地形図

別苅恵比須神社

以下は、北海道神社庁サイトから。

恵比須神社
【由緒】
 マシケ場所初代請負人阿部屋村山伝兵衛が宝歴3年マシケ場所請負に伴ない、増毛に運上屋を大別苅川尻に出張運上屋を設け、この出張運上屋の守護神として天明8年創立され、明治9年村社に列格、昭和21年宗教法人設立、平成元年御鎮座二百年祭を斎行した。
【所在地】
〒077-0217 増毛郡増毛町大字別苅村字萌
【例祭日】
6月20日
【祭神】
事代主神(ことしろぬしのかみ)
【旧社格】
村社

一ノ鳥居(鋼製鳥居)

手水石は昭和10年6月2日奉納

 

参道右に別苅連合自治会館

対面に物品庫か神輿庫?

二ノ鳥居(鉄筋コンクリート製で表面は化粧コンクリート)

かなり剥離しており、このまま鉄筋むき出しだと倒壊の恐れあり。

 

石灯籠一対(安政7年◯月吉日?と見える)

 

狛犬一対(建立年不明。台座には惣番人中の文字が見え、対の方は判読不能。舎熊神社や増毛厳島神社に似た意匠の狛犬がある[後述])

 

右側の顔が崩壊しており仮面のように見える

 

明治大学人文科学研究所紀要 第90冊 (2023年 3 月31日)
石造狛犬の類型と分布に関する野外調査を主とした網羅的研究 -岩手県の石造狛犬を事例として
明治大学人文科学研究所 川野明正 p.437から

丸浦正弘氏の『ほっかいどうの狛犬』によれば,北海道増毛厳島神社・舎熊神社・別
苅稲荷神社などにも文政年間(1818-1831)(から文久年間〈1861-1864〉の可能性がある)の宮古型狛犬がある[丸浦 2007: 174-176]。

とあり、これらの狛犬は神社創祀の天明8年(1788)より以降で文政年間のものと見られる。

 

神社から見える大別苅方面の崖とカムイエト岬

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