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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

増毛郡増毛町雄冬 雄冬神社 ~映画「駅 -STATION-」のロケ地にもなった神社

雄冬神社は、北海道増毛郡増毛町雄冬にある神社で神社本庁包括外の神社です。御祭神は保食神(うけもちのかみ)で例祭日は7月23日。

かつて雄冬は「陸の孤島」と呼ばれ、人の往来は海上交通が主体で増毛-雄冬間の定期航路もあったが、1981年(昭和56年)11月10日の国道231号全面開通により、定期航路は後に廃止されました。

1981年(S56)公開、故高倉健主演「駅 -STATION-」のロケ地となった神社で、英次(高倉健)の故郷で妹、冬子(古手川祐子)の結婚式が開かれたのが雄冬神社。

雄冬地区

 雄冬は浜益区の北端に位置しまた増毛町の南西端でもあり、雄冬岬の最突端「タンバケ」以北から赤岩岬を境に岩老と接している。
その中央部にある雄冬集落は、沖合にあるトド岩(海馬島)から陸地に向けて引かれた境界線で南を浜益区雄冬、北側を増毛町雄冬となっていて集落を切断しています。このヘンテコリンな境界線は古くからの漁業権と関係しており、明治時代のニシン漁が盛んな時代は漁業者の争いが絶えませんでした。

1785年(天明5年)、松前藩はそれまでのマシケ場所を2分割し、雄冬岬を境として北を新しいマシケ場所、南をハママシケ場所とした
1870年(明治3年)に当地を巡行した宮島幹の『北行日記』によれば、南から雄冬岬を廻った先の海岸には浜益郡と増毛郡の境界標柱が立っていたという
1871年(明治4年)8月、浜益・増毛両郡を直轄とした開拓使により、浜益郡の最北部を雄冬村とし、増毛郡には岩尾村が置かれ雄冬はその一部とされた
1882年(明治15年)、浜益郡雄冬村は群別村に編入
1896年(明治29年)5月21日、雄冬事件(漁業権の争いで負傷者が出る)が起きる
1900年(明治33年)、岩尾村は近隣の5村9町と合併して増毛町となる
1902年(明治35年)2月、北海道二級町村制の施行により、群別村が茂生村と合併して浜益村となる
2005年(平成17年)、浜益村は石狩市と合併して浜益区となる

増毛郡岩尾村(いわおむら)
北海道:留萌支庁増毛町岩尾村
[現在地名]増毛郡増毛町岩尾・岩老(いわおい)・雄冬(おふゆ)
明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治三三年(一九〇〇)まで存続した村。北は別苅(べつかり)村。明治六年の「天塩国地誌提要」に岩尾村とみえ、三戸(平民)・一二人の定住があり、寄留は三戸(平民)、男八六人・女六人であった。鰊漁の隆盛とともに同二四年には戸数六七戸・三一一人と増加した。また艀漁小廻船一一一(徴発物件一覧表)。明治二〇年ブヨシ(武好)駅逓が当地に移転・新築され(増毛町史)、増毛山道の通行が便利になった。伝統芸能の雄冬神楽(町指定文化財)は明治二年頃から始まったという。同二九年雄冬沖の海馬(とど)島付近の漁場をめぐって浜益(はまます)郡漁民と増毛郡漁民の間で紛争が起き、同三〇年両郡漁業組合は和解、この付近は入会漁場となった(増毛町史)

浜益郡雄冬村(おふゆむら)
北海道:石狩支庁浜益村雄冬村
[現在地名]浜益郡浜益村大字群別村(くんべつむら)
明治初年(同二年八月―同六年)から明治一五年(一八八二)までの浜益郡の村。郡の最北端に位置する。近世はヲフイなどと記録される地域。

 

 雄冬の地名由来はアイヌ語で、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では以下の通り。
ウフイ<uhuy>燃える、焼ける
   ①昔、ここに雷が落ちて近辺が焼けたため。上原熊次郎地名考
   ②海岸の絶壁には赤い岩層が大きく、目立つように露呈している。それでuhuyという名で呼ばれたのではなかろうか。{松浦氏は『西蝦夷地名考』で「赤岩にて焼き岩の如く見ゆる」と書いている。}山田秀三地名考

同リストでは 『山田解釈が自然なように思われる。』とコメントを残しています。

ただ、ウフイ(燃える)という単語のみで地名になるとは思われず、ウフイ~と後ろに続いていたのが省略された形になったのでしょうね。

実測切図にはウフイプと見え、uhuy-p燃える所の意味ですね

「東西蝦夷山川地理取調図」 松浦武四郎 安政六年

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き

大正8年測図地形図

雄冬神社

以下は、北海道神社庁誌(1999、絶版)神社本庁包括外神社-未公認神社の項から。
【由緒】
 江戸末期の創立と云う。町内雄冬地区の鎮守。
【所在地】
増毛町大字雄冬村
【例祭日】
七月二十三日
【祭神】
保食神(うけもちのかみ)
【旧社格】
-

雄冬神楽(増毛町指定無形民俗文化財)
[公開の期日]雄冬神社祭(1月2日)

増毛町唯一の無形民俗文化財です。
 1879(明治12)年に雄冬地域に神楽舞が伝承され、1891(明治24)年に稲荷神社を現在の場所に移転した際、八戸出身の神楽笛の名手を中心に、再編成、いくつかの舞を加えて現在の形に完成しました。以来、家内安全・大漁祈願を願い伝承されてきました。松前神楽の流れや八戸地方の太神楽の祭事の影響がみられる踊りです。
 現在は、清めの舞い「御幣舞」にはじまり、めでたく鯛を釣る恵比寿舞まで14の演目が現存しています。

残念ながらこの先を見据えた伝承者がいないようで、この伝統芸能も存続の危機を迎えている。

雄冬岬展望台が見えます。行きたかったのですが今季の営業は終了していました(残念)

そしてかなりの高さのある崖も特徴的で柱状節理が発達しています。

 

雄冬集落一帯は巨大な地すべり地形の陸上部末端にあり、その膨大な岩石を含む土塊は沖合の海底まで分布しています。先程の崖は地すべり境界になります。

 

一ノ鳥居

手水舎(手水石の奉納年は不明)

 

うわーっ

 

岩石ゴロゴロ

 

二ノ鳥居

拝殿前に石灯籠一対(建立年不明)と狛狐一対(昭和52年7月20日建立)

 

 

拝殿右手に山ノ神と大平山三吉大神

 

 

拝殿左手に故布施作太郎氏とある顕彰碑(誰なのか分かりません^^; )

 

さてと帰りますか

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