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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

稚内市恵比須 恵比須厳島神社

正式名称は厳島神社(いつくしまじんじゃ)だが、アチラコチラにあることから便宜上、地名を付けた形で以降呼ぶこととします。

恵比須厳島神社(えびすいつくしまじんじゃ)は、北海道稚内市恵比須2丁目1にある神社本庁包括外神社。御祭神は神社名から市岐島姫命(いちきしまひめのみこと)で例祭日は不明。

令和8年(2026)4月30日参拝ですが、北海道神社庁誌や稚内市史にも情報がない神社でした。

神社は住宅街にあり小さなお社です

扁額の揮毫は当時の北海道知事の町村金五

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稚内市ノシャップ 岬神社 ~海中から発見された天保二年の御影石鳥居~

岬神社(みさきじんじゃ)は、北海道稚内市ノシャップ2丁目375番地にある神社で旧社格は無し。御祭神は大綿津見神(おおわたつみのかみ)で例祭日は7月5日。

令和8年(2026)4月30日参拝

野寒布岬(のしゃっぷみさき)=[ノシャップ岬]に立ち寄り道道254号抜海港線に戻ったところに神社はあります。
ここも鹿の糞だらけで踏まないで歩くのが大変というか無理・・・

創建は意外と古いのですが、北海道神社庁では文政年間(1818年~1831年)、北海道開発局宗谷遺産アーカイブでは文化年間(1804-1818)頃、稚内市史第二巻では天保二年(1831)とバラバラであり、当サイトでは稚内市史第二巻の天保二年(1831)の記述を採用いたします。
そして気をつけないといけないのが宗谷岬にも岬神社はあり、間違われるのかあちらは宗谷岬神社という名前になっています。

野寒布岬(のしゃっぷみさき)

多分自分を含めて道民の中にもどっちだっけ??という野寒布岬(ノシャップ)納沙布岬(ノサップ)ですが、野寒布岬は北の稚内市納沙布岬は東の根室市なのです。
どちらも語源は同じ意味を持ち、その当て字の読みからも紛らわしく混同しやすいですよね。

野寒布(ノシャップ)の地名由来は諸説あるがアイヌ語から来ており、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では以下の通り。
ノッサム<not-sam>崎の際〈岬・の側〉この崎の際にコタンが有ったため。〈ノッ(not)は顎(あご)だが、地名では岬をいう。〉上原熊次郎地名考〈山田秀三補足説明〉
ノッエトゥ *ノテトゥ<not-etu>〈岬・岬〉本名ノツエト。〈エトゥ(etu)は鼻のことで、地名では岬をいう。〉松浦武四郎〈山田秀三補足説明〉
ノッサウシイ *ノッサウシ<not-sa-us-i>〈岬・の前・にある・もの〉本名ノツトサウシ。〈ここは山崎の前に平地が突き出ているのでこうも呼んだのであろうか。〉松浦武四郎〈山田秀三補足説明〉
同地名リストでは「諸説あり特定しがたい。」とのコメント

また、角川日本地名大辞典ではノッシャム(崎の際の意、蝦夷地名考并里程記)、ノツヱト(岩鼻の意、再航蝦夷日誌)、ノッシャプ(岬の顎の意、北海道蝦夷語地名解)とあります。

「東西蝦夷山川地理取調図」 松浦武四郎 安政六年

ノツシャフとあり、本名ノツトサウシとありますね

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き

岬神社

以下は、北海道神社庁サイトから。
岬神社
【由緒】
 往昔ノシャップ沖合は宗谷往復船の難所として有名であり、文政のころ会所前に来た弁財船がノシャップ岬に差しかかった時、突然大時化となり幾本となく投錨したが切れて流失、残る1本を命の綱として2夜3日事無きを得た。其の錨を引揚げると錨の爪に円形50貫余りの石がしっかり食いついて揚って来た。この霊石のお陰で助かったのだと海浜に小社を建立、大綿津見神を奉斎。岬神社と称し豊漁の神、海の護り神として祀られた。天保3年、天保6年に石鳥居の寄進があった。昭和37年9月開基百三十年記念として神殿改築落成および天保年間の石鳥居修復、社碑、境内玉垣、唐獅子、灯籠、手水舎の寄進があった。平成10年6月25日、本殿・拝殿改築。
【所在地】
〒097-0026 稚内市ノシャップ2丁目375番地
【例祭日】
7月5日
【祭神】
大綿津見神(おおわたつみのかみ)
【旧社格】
なし

以下は稚内市史第2巻から

海中に沈んでいた創建当時の鳥居を発見し、その引き揚げに成功したとして話題をまいたのは岬神社である。同神社は、天保二(一八三一)年に伝説の丸い石(重さ一八七・五キログラム)をご神体として建立されたと伝えられている。北門神社と並ぶ歴史を誇り、明治時代からは沿岸漁民の豊漁と安全の祈願の社として敬われ、昭和五一(一九七六)年には宗教法人の認証を受けている。

昭和六二(一九八七)年に、同神社前浜沖合約三〇〇メートルの水深四メートルの海中から発見された鳥居は、天保二年と同三(一八三二)年に宗谷場所請負人たちが寄進しようとした花崗岩製のもので、長さ一・三五メートル、直径二七センチメートルであった。昭和六三(一九八八)年春にその引き揚げに成功したが、平成四(一九九二)年にも別の場所で鳥居の笠木・柱・桁の三点を見つけ引き揚げている。

 

一ノ鳥居

社号標(昭和35年6月建立)当時の北海道知事 町村金五 謹書

 

境内社 たぶん稲荷神社

手水石

玉石を半分に割ってくり抜いたもの

 

二ノ鳥居(天保二年正月)

これが創建時に奉納すべきところ時化で沖合400mで沈没し、後に海中から引き上げられた御影石鳥居か

奉納 支配人 阿部喜右衛門、番人 竹松

神燈通海

天保二辛卯年正月吉日とあり、西暦1831年のことである

昭和三十五年六月吉日再建 奉讃会

「神燈通海」碑(昭和三十五年六月吉日建立)

表は「鎮座の起源について」の説明板となっています

 

石灯籠一対(昭和35年6月建立)

 

 

狛犬一対(昭和35年6月建立)

 

 

 

 

 

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稚内市抜海村 抜海神社

抜海神社(ばっかいじんじゃ)は、北海道稚内市抜海村にある神社本庁包括外神社で御祭神は不明(後述)、例祭日は6月21日。

稚内市史第2巻には「明治四(一八七一)年五月、漁場を開いた伊達林右門、栖原小右衛門が浜に保食神を祭祀した」という記述があり、ここより漁港の浜に現在ある保食神社(うけもちじんじゃ)のことだろう。

令和8年(2026)4月30日参拝

抜海村

稚内市史第2巻から要約

明治8年(1875年)5月7日、樺太千島交換条約調印により、樺太アイヌの人たちの宗谷への移住が計画され841人のアイヌの人たちは12か所に分散させられ、抜海にも一〇戸、男五三、女四六の計九九人が移住出来たと思いきや、翌年には対雁(ついしかり)に強制送還されていった。
明治11年(1878年)7月22日付太政官布告で、「郡区町村編成法」が制定され、抜海村誕生
明治19年(1886年)花谷太郎左衛門、同25年(1892年)、油谷栄太郎・足立房松・木下文蔵・辻井佐太郎・石川喜平・荒川徳太郎らが移住。この年、抜海で初めてニシン網漁を操業。
同30年(1897年)に夕来駅逓所が設置される。抜海以南は人家は無く、漁期が終われば、駅逓連絡の逓送人のほかは、まれに旅人が通るくらいであった。その後、クトネベツや勇知原野の入植者もぽつぽつ増えて、抜海が物資の集散地となっていった。
明治33年(1900年)抜海村・声問村・稚内村が合併して一級町村稚内村誕生。現在は稚内市の大字として「抜海」の地名が残されています。
明治後半にはクトネベツ地区において大農場開拓がはじまり大正、昭和へと続いていく。
大正13年(1924年)6月25日、鉄道省天塩北線稚内駅(現・南稚内駅) - 兜沼駅間開通に伴い抜海駅開業
令和7年(2025年)3月15日、同日のダイヤ改正で抜海駅廃止

抜海の地名由来はアイヌ語から来ており、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では以下の通り。
パッカイペ〈pakkay-pe〉〈子を背負う・もの〉人を負う所。この海岸の山際に、石を背負う形の大きな岩があるため。〈現在抜海市街の南のはずれにある抜海岩がその名のもとであるという。〉上原熊次郎地名考〈山田秀三補足説明〉

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き 他の地域は未開の地であるのに対し、早くから移住した人達により小さな集落が出来ている。

大正12年測図、昭和3年鉄道補入地形図 鉄道駅(ばつかい)は右端に伸びる道路のさらに先にある。神社記号は見られない。

抜海神社

北海道神社庁誌 第二章、神社本庁包括外神社 三、未公認神社の項から抜粋

抜海神社(ばっかいじんじゃ)
所在地:稚内市抜海町
例祭日:六月二十一日
神職:一、奉仕者 渡井 民元

上記が唯一の神社に関する記録であり、明治初期には開かれてた集落にある神社としては、かなり寂しい現状である。

道路からも目立つ赤い鳥居が印象的(何も無いからっていうのもあるけど)

社殿右後ろには忠魂碑(昭和十年八月建立)

隣には有名な抜海岩(抜海の地名の由来にもなった岩です)

抜海岩の最下部にある海蝕洞には遺跡があります



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稚内市抜海村上勇知 明治神社

明治神社(めいじじんじゃ)は、北海道稚内市抜海村上勇知にある神社で神社本庁包括外の神社です。御祭神は資料はないが社名から明治天皇(めいじてんのう)でしょう。例祭日は7月30日(明治天皇が崩御なされた日)。

令和8年(2026)4月30日参拝

勇知地区

地域は勇知川流域にあり、上勇知と下勇知に分かれていて神社のある上勇知には集落とJR勇知駅がある。

稚内市史には明治30年以降に抜海が物資の集積地となった頃、入植者がぽつぽつ増えてきたとだけ書いてあった。

勇知駅の開業は更に遅く、鉄道省天塩北線稚内駅(現・南稚内駅) - 兜沼駅間開通に伴い開業。
かつて当駅裏から勇知川河口の下勇知地区へ、簡易軌道勇知線が運行されていた。勇知駅前 - 下勇知間9.8km。動力は馬力で、農業開発が目的であった。
1947年(昭和22年):勇知駅前 - 下勇知間開通(全線開通)
1958年(昭和33年):廃止)

 

勇知の地名由来はアイヌ語から来ているが、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では以下の通り。

イオッイ・イオチ<i-ot-i→i-oci>それ・多くいる・所 永田地名解では「ヘビ多き所」と書かれた。ヘビというのをはばかって「それ」といったのであろう。
山田秀三地名考

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き 未だ未開の地であり何もない。河口にユーチと見える。

大正12年測図、昭和3年鉄道補入地形図 鉄道駅(ゆうち)ができ集落も出来つつある。

明治神社

北海道神社庁誌 第二章神社本庁包括外神社 三.未公認神社の項から

明治神社(めいじじんじゃ)
【由緒】
不明
【所在地】
稚内市上勇知
【例祭日】
7月30日
【祭神】
記載はないが社名から明治天皇(めいじてんのう)と思われる
【旧社格】
なし

国立国会図書館デジタルコレクションで稚内市史も探してみたが、当神社に関する記載はなし。(自宅で調べられる便利な世の中になりました)

鳥居と参道奥に社殿があるのみのシンプルな神社です

忠魂碑(大正拾参年建之、昭和四拾壱年再建)

 

 

馬頭観世音菩薩碑(背面や側面になにか書かれているが墨書きなので判別できず)

 

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天塩郡豊富町兜沼 兜沼神社

兜沼神社(かぶとぬまじんじゃ)は、北海道天塩郡豊富町兜沼にある神社で神社本庁包括外の未公認神社です。御祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、春日大神(かすがのおおかみ)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で例祭日は7月25日。

令和8年(2026)4月30日参拝

神社は兜沼集落北方の高台にあり、境内はエゾエンゴサク(蝦夷延胡索)がたくさん咲いてましたが、歩く場所は鹿の糞だらけで踏まないように歩くのに苦労しました⋯

兜沼地区

豊富町史から要約

 兜沼方面は、豊富町の北部やや中央に位置し、南部にはサロベツの大原野が展っており、元の名称がサルペットウという沼周辺の地がゆえ沼の端と言われていた。大正一三年、宗谷線の一部開通とともに兜沼と呼称し、サラペットウは、兜沼駅方面から望見すると、あたかも兜の形に似ているというので沼の名も兜沼と称した。『アイヌ語地名解』(更科源蔵)には、アイヌ語でペライサルトーと呼ばれていた沼で、ペライは魚を釣ることであり、サル・トは葦原の沼の意であると述べている。アイヌの音吉は、もともと抜海に居住していたことから、兜沼方面の地理にも精通していたので開拓上大いに貢献した。本村開拓の第一歩がここから始められたのも、音吉が先住していたことが一つの要因となっている。

明治三十五年六月、梅村庄次郎が入殖に先立ち周辺を調査。
翌三十六年四月、梅村庄次郎を団体長とする岐阜団体一二戸が入地するが、あまりにも過酷な土地のためその年の半ばに全部の者が去り、梅村庄次郎は音吉のもとで独り開墾に従事、数年を経た明治四十年四月郷里から家族を呼び寄せた。(本村の開拓の始まり)

明治三十八年七月阿部良吉、三十九年に工藤多喜太、安孫子惣次郎、春日井文四郎、菅野寅之助、堀栄助がそれぞれ入地。
明治四十三年、工藤多喜太を団体長とする山形団体一八戸が兜沼附近に入植

沼向には明治四十年春、阿部安蔵を団体長とする相馬団体三〇戸のうち、六戸すなわち早川亥之助、米倉竹蔵、阿部米蔵、田中己之助、山下届蔵、大越某が入植し、開拓の緒についた。

昭和七年~二十四年ごろまでは、稚内市の桑原酉之助がこの部落内に澱粉工場を設置し、昭和二五年~二九年までは、阿部小一が土地、工場とも一切買収し一部改造し経営。その後は、京都の中村幹が譲り受けて三か年ほど経営。このように昭和七年から澱粉工場が設置されていたので、農産物の主体は馬鈴薯に置かれていたが、その後澱粉も他の穀物も安値が続き、急速に酪農経営に転換されていった。
酪農の機械化と規模拡大により昭和四十七年度には、牛の飼育頭数も三〇〇頭に達した。

参考文献:『新天地の天塩』『豊富村誌』

兜沼の地名由来は和語であり
元々の名はアイヌ語のペライサㇽト<peray-sar-to>釣りをする・ヨシ原の・沼
であるが沼は和人入植後、「サロペットウ」「サルベットウ」「サロベツ湖」などの名称で呼ばれ、沼のほとりに出来た和人入植地も「沼の端」の和名で呼ばれ、駅から見た沼の形が兜の鍬形に似ていることから「兜沼駅」と命名されることとなり、地区名や沼の名も兜沼と呼ばれるようになった。

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き 未だ未開の地であり何もない。ペライサルトーと呼ばれる沼が見える。

大正12年測図、昭和3年鉄道補入地形図 鉄道駅(かぶとぬま)ができ集落も出来つつあるが、地名に沼ノ端と見える。

兜沼神社

北海道神社庁誌 第二章、神社本庁包括外神社 三、未公認神社の項から抜粋

兜沼神社(かぶとぬまじんじゃ)
【由緒】
明治四十二年に創建される。昭和五年に社殿の老朽化、また歌舞登神社境内が鉄道用地となった為に両神社を合併、歌舞登神社の御祭神、市杵島姫命を合祀し現在地へ奉遷し、社殿を造営した。
参考文献:『豊富町史』
【所在地】
豊富町字上サロベツサロベツ西一〇線三一七番地
【例祭日】
7月25日
【祭神】
天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)
春日大神(かすがのおおかみ)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
【旧社格】
なし

入口脇には獣魂碑(平成五年十月吉日建之)

 

狛犬一対(奉納 昭和廿一年八月 阿部健吉)

【利尻研究 (28): 69-82, March 2009】
「宗谷管内所在の狛犬」から

兜沼神社(豊富町上サロベツ西 16 線) 
兜沼神社の創建は明治 42 年にさかのぼる.祭神は 天照大神と春日大神.昭和 5 年に社殿の老朽化のた めに,兜沼湖畔にあった歌舞登神社と合併し,同社の 祭神である市杵島姫命をともに祀ることになった.例祭 日は氏子一同の希望をいれ,毎年 7 月 25 日とされ, 現在に至るまで地域住民によって大切にお祀りされてい る. 兜沼神社は平成 2 年に社殿が新築されたが,狛犬 や鳥居,手水舎などは奉納された当時のままの姿をと どめている. 狛犬(図 11)は暗灰色の玄武岩質安山岩を石材と している.台座の上で蹲踞しているが,足を踏み外しそ うになっている.丸顔でユーモラスな表情がとても印象 的である.奉納者は阿部健吉.台座には昭和 21 年 8 月に奉納したことが刻まれている.終戦直後の厳しい 時期であるが,狛犬の明るい表情はやがて来る新たな 時代を見据えているかのようである. 
年代:昭和 21 年 (1946 )
奉納者:阿部健吉 
銘文:奉納 昭和廿一年八月 阿部健吉 
狛犬様式:

 

 

 

手水舎

手水鉢(奉納 昭和三十七年七月吉日 三島家)

 

エゾエンゴサク(蝦夷延胡索)

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稚内市声問村更喜苫内 更喜苫内神社

更喜苫内神社(さらきとまないじんじゃ)は、北海道稚内市声問村更喜苫内にある神社で神社本庁包括外の未公認神社です。御祭神は天照大神(あまてらすおおかみ)、三吉大神(みよしのおおかみ) で例祭日は7月31日。

令和8年(2026)4月30日参拝

国道40号から東に進んだ小高い丘の上に神社はあり、旧国道交差点傍に開拓百年記念碑があります。

更喜苫内地区

以下は稚内市史から要約

明治28年(1895)当時は、まだうっそうたる大森林に覆われていたが、新潟県人本田啓太郎・定治が入植。
明治32年(1899)この地方が植民地区画され以来入植者も次第に増加。
明治35年(1902)富山県から沢木某・桜木佐八郎
明治37年(1904)阪根甚十郎・野田義政などに続き、田辺杉太郎・与安重秀・佐藤徳道・上村佐太郎・梅津実らが入地
明治44年(1911)梅津半六・湊与七が入地。三三戸くらいの地域を形成。
明治44年5月に発生した山火事により、二戸を残し家財も含め全部焼失し、さらに本田定治・野田義政・白石信元らが運動し開設した簡易教育所(明治39年(1906))も焼失。
大正2年(1913)本田定治が北海道庁の指令で駅逓を開設。勇知・兜沼(かぶとぬま)・芦川の内陸地帯が開拓されるにつれ、稚内との主要交通路線が整備されて同12年(1923)に閉鎖されるまで続いた。

大正9年(1920)地域で畜産の綿羊が始まり梅津半六がメリノ種雌雄一対と肉用サウスダウン一種を導入する。技術競技会に出場したり優秀純血種の育成で、昭和33年(1958)ころまで全道共進会でも入賞するなど畜産が盛んになった。
大正15年(1926)梅津半六が初めて初生ひな五〇羽を買い入れ、飼育に成功してから徐々に普及した。
昭和5年(1930)には更喜苫内・上勇知・幕別の三地区で養鶏組合を結成したが、バレイショ生産の減少に伴い、飼育する農家も少なくなった。

明治末期に梅津実がホルスタイン雑種三頭、阪根照吉がエアシャー種二頭を導入したのが更喜苫内の酪農の始まりで、大正5年(1916)阪根甚三郎がホルスタイン種を導入、大正14年(1925)梅津半六と工藤伝蔵がエアシャー種を導入、同人らがホルスタイン種二頭を導入したのが地区酪農の先駆けとなった。
昭和28年(1953)から同31年(1956)の冷水害、加えて同37年(1962)の大凶作は、酪農への転換を余儀なくされた。
昭和38年(1963)農村電化事業によりテレビやミルカーの導入。
昭和39年(1964)第一次農業構造改善事業が始まる。
昭和41年(1966)サラキトマナイ川の河川改修、排水路工事が着工。このころから牛舎の増改築が活発化し、酪農の大型・多頭化飼育に拍車がかかっていった。
昭和45年(1970)第二次農業構造改善事業が始まる。畜舎の近代化も進んで、パイプライン・バルククーラーなどは同50年(1975)には全戸に導入、タンクローリーによる牛乳集荷もこのころから始まった。
しかし、昭和54年(1979)から、牛乳の生産制限が始まり、酪農経営は大きな試練を迎えることになった。

平成8年(1996)更喜苫内地区開基一〇〇周年、更喜苫内小学校開校九〇周年を祝う記念式が盛大に挙行された。開基百年記念碑がつくられ、地域の生命と財産を守り続けた三個の鐘が先人の意を託して釣られている。
平成9年(1997)年9月現在の世帯数および人口は、335世帯・136人である。

 

更喜苫内の地名由来はアイヌ語から来ており、山田秀三「北海道の地名」では次のとおり。キ・ト・オマ・ナイ<sarki-to-oma-nay>葭(葦)の・沼・にある・川

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き 未だ未開の地であり何もない。サリキトオマナイの川名が見える

大正12年測図地形図 ポツポツと集落が形成されつつある

更喜苫内神社

以下は北海道神社庁誌 第二章神社本庁包括外神社 三.未公認神社の項から

【由緒】
不明
【所在地】
稚内市サラキトマナイ
【例祭日】
7月31日
【祭神】
天照大神(あまてらすおおかみ)
三吉大神(みよしのおおかみ) 
【旧社格】
なし

開基百年記念碑

ぽつんと離れたところになんかある

小さい手水石

馬頭観世音大菩薩碑(大正十年酉九月十八日)

脇に村内安全と刻まれた馬頭観音(大正三年九月建之)

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