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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

石狩市浜益区浜益 浜益神社

浜益神社(はまますじんじゃ)は、北海道石狩市浜益区浜益227番地にある神社で旧社格は郷社。御祭神は保食神(うけもちのかみ)、市岐島姫命(いちきしまひめのみこと)で例祭日は7月15日。

浜益には集落が2つあり、浜益川河口に開けた集落と海岸線を北上し海崖を越えた所に漁港のある集落がありますが、このうち北側の集落が浜益本村なのです。

神社は浜益本村の中心を流れている2つの沢の内、右側の沢(茂生川)にあり石狩市浜益支所を過ぎ駐在所が見えてきてもそのまま真っすぐ進んだ先にあります。

※ちょっと西日がきつく、鳥居に刻まれた江戸後期の年号が確認しづらいので、機会があれば再度撮影に行きたい感じ・・・

浜益(はまます)地区

現在は石狩市浜益区で、かつては浜益村で、更に前は茂生(もい)村で、更に前はハママシケと呼ばれ、更に前はマシケと呼ばれ、更に前はヘロクカルシと呼ばれためんどくさい所。近年過疎化が進んでいるが行政区だけは大きくなっていってるので出世魚みたいなもの。

1707年(宝永3年) 江戸時代の浜益郡域は西蝦夷地に属し松前藩によってマシケ場所(ヘロクカルシ)が開かれ、マシケ場所を家臣下国兵太夫の采地としました。当時のマシケ場所は浜益と増毛にまたがるものでした。
1785年(天明5年)マシケ場所はマシケ場所(増毛)とハママシケ場所(浜益)に分かれる。
1807年(文化4年)南下政策を強力に進めるロシア帝国の脅威に備え幕府直轄領となる。
1821年(文政4年)松前藩領に復帰。
1831年(天保2年) 浜益神社が創建される。
1855年(安政2年)蝦夷地が再び幕府直轄領となり、留萌郡以北は庄内藩が留萌・苫前・天塩に出張陣屋を築き、警固を行った。
1857年(安政4年)送毛山道(オクリキ山道)・増毛山道の開削。
1859年(安政6年)の6藩分領以降、留萌郡北は庄内藩領となり、1860年(万延元年)に庄内藩はハママシケに警備開拓の本陣として元陣屋を築いた。
1868年(慶応4年)戊辰戦争が始まり庄内藩引き揚げ。
1869年(明治元年)北海道11国86郡が置かれ、石狩国浜益郡に茂生(もい)村が置かれた。
1902年(明治35年)4月1日 浜益郡茂生(もい)村、群別(くんべつ)村が合併、二級町村制、浜益郡浜益村。
1907年(明治40年)4月1日 浜益郡黄金(こがね)村と新設合併し、一級町村制、浜益郡浜益村。
2005年(平成17年)石狩市に編入合併、浜益郡及び浜益村消滅。

■茂生(もい)村
明治初年(同二年八月―同六年)から明治三五年(一九〇二)までの浜益郡の村。柏木(かしわぎ)村の北東に位置する。近世にはモイ、ヘロカルイシ、テキサマなどと記録されている地域。「石狩国地誌提要」によると戸数六一(官宅三・永住一二・寄留一・アイヌ四五)・人口二二二(永住男二五・同女一七、寄留男三・同女一、アイヌ男八九・同女八七)。一八四三年(天保一四年)創建の弁天社、同年創建の稲荷社がある。

■浜益(はまます)村
明治三五年(一九〇二)の二級町村制施行とともに茂生(もい)村と群別(くんべつ)村が合併して成立した浜益郡の村。現村域のほぼ北半分にあたる。同四〇年に一級町村制施行とともに黄金(こがね)村と合併して浜益村となる。


 地名由来はアイヌ語で諸説あり、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では以下の通り。
●浜益(はまます)
・ - < - > - 元来増毛であったが、増毛の名が北に移ったため、浜の字を附したもの。{増毛については別掲。}永田方正地名解
・ - < - > - ここと同名(増毛のこと)の地があったので、浜の字を冠して当所の地名とした。松浦武四郎
・アマムスケ<amam-suke>〈穀物を・煮る〉昔、判官公がここで飯を炊いたという。〈浜の字が付いて長くなったので、アイヌがそれを元来の地名と考えて言葉を当てたものの聞き書きだったろうか。〉松浦武四郎 〈山田秀三補足説明〉 

同リストでは”「増毛説」が妥当と思われる。”とのコメントを残している

●増毛(ましけ)
マシケイ〈マシケ〉<mas-ke>カモメの成る〈カモメ・の所〉この海湾一面にニシンが群来る時はカモメで一杯になるため。 〈元来は浜益(浜益毛)の所の名であったが、そこの運上屋をここに移してから、ここが増毛といわれるようになったのだという。〉松浦武四郎〈山田秀三補足説明〉

ちょっとややこしくなるが、浜益本村のあったところは古くは茂生(もい)村で、モイ<moy>静かな入江(海)であり、マシケ場所が開かれる前はヘロクカルシといい、ヘロキ・カ・ウ・イ <heroki-kar-ush-i>(鰊を・捕る・いつもする・処)の意で日本海側には同様の地名がたくさんある。

「東西蝦夷山川地理取調図」 松浦武四郎 安政六年

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き

大正8年測図地形図

浜益神社

1831年(天保2年)モイ(茂生)にハママシケ場所の場所請負人初代伊達林右衛門によって建立されたという(浜益村史)。「西蝦夷日誌」に「稲荷社有」とみえる。「石狩国地誌提要」は1843年の創建とする。
1875年(明治8年)稲荷社は郷社となり浜益神社と改称。
1925年(大正14年)、同じく初代伊達林右衛門が建立した1831年(天保2年)創立の弁天社(ハママシケ場所運上屋の守り神として祀られた)が合祀される。
神社には小型の古い狛犬(越前狛犬1700年代)が一対あるが、阿形吽形の形が違うので元々二対あった狛犬の状態が良いのを組み合わせ一対にした物と思われる。

 

以下は、北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 浜益村茂生に建立された稲荷神社は天保年間には現在の浜益高校校庭にあった。明治8年に開拓使はこの社を郷社に昇格させ浜益神社と称し、例祭日を7月15日と定める。例祭日は村民一般の休日となり御神輿は北は雄冬、南は濃昼まで海上渡御を行い氏子は海浜に迎え現在も参拝している。
【所在地】
〒061-3101 北海道石狩市浜益区浜益227番地
【例祭日】
7月15日
【祭神】
保食神(うけもちのかみ)
市岐島姫命(いちきしまひめのみこと)
【旧社格】
郷社

駐在所そばの交差点にある社号標

 

駐在所

 

石段と下部には小さな手水鉢

 

一ノ鳥居(右側と左側に刻まれた年号に違いがありすぎて建立年不明)

右側:奉納 安政三丙辰(ひのえたつ)三月吉日、願主 黒澤直右衛門 山田久兵衛
黒澤直右衛門はマシケ場所の支配人で、山田久兵衛はハママシケ場所の支配人久兵衛のことか?(安政3年は1856年のこと)

 

左側:御大典記念 浜益氏子中

昭和3年(1928年)?

 

左側に手水鉢(明治18年11月5日?奉納)

 

石灯籠一対(建立年不明)

 

狛犬一対(建立年不明)

 

 

狛犬一対(越前狛犬1700年代)

 

 

境内の端にある石碑

神教訓導試補澤田豊吉碑

龍神碑?

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石狩市浜益区幌 幌(ぽろ)稲荷神社

幌稲荷神社(ぽろいなりじんじゃ)は、北海道石狩市浜益区幌1200番地にある神社で旧社格は村社。御祭神は稲荷大神(いなりおおかみ)で例祭日は7月14日。

幌集落中心を一直線に伸びる旧国道の突き当りに神社はあり、江戸後期の増毛山道の入口にもなります。石灯籠と狛犬さんは居ませんでした。

幌(ぽろ)地区

1796年(寛政8年)伊達林右衛門(初代)がマシケ(増毛)とハママシケ(浜益)の両場所場所請負人になり、林右衛門はポロクンベツ(幌)に夏季のナマコ漁用の漁番屋を建てている。
1857年(安政4年)場所請負人伊達林右衛門(3代目)がポロクンベツ(幌)から増毛山道を切り開く工事を始める。
1870年(明治3年)の「北行日記」には「ホンクンヘツ人家六、七軒、ホロクンヘツ人家七、八軒、トコタン人家二、三軒、此辺ハ尽ク海岸又猟場ナリ。チシヘツト云フ断岩ノ下ヲ過キ漁家一軒アリ」と見える。
1871年(明治4年)浜益を直轄地とした開拓使により村落の名称の選定を行う。このとき「ポロクンベツ」は「幌(ぽろ)」と改称され、南隣の群別(くんべつ)、北隣の床丹(とこたん)と合わせて群別(くんべつ)村が出来る。
1877年(明治10年)開拓使は果樹栽培の奨励を目的として、浜益村にリンゴやサクランボなどの苗木を無償で交付した。浜益村はこの苗木を近隣の希望者に配り分け、幌への配布は全体の54パーセントを占めた。浜益の果樹園の多くはニシン漁の網元の経営であり、ヤン衆(出稼ぎ漁師)が漁のない時期に果樹園で働き、肥料には鰊粕が用いられた。
1896年(明治29年)に茂生(もい)警察分署の調査によると、幌は浜益郡の中心地である茂生に次ぐ大きな集落で、商店が海浜に立ち並び巡査駐在所や寺院説教所などが設けられていたという。
1902年(明治35年)4月1日、北海道二級町村制の施行により、以下の町村が発足し幌のある群別村は浜益村となり消滅。
浜益村(二級村) ← 茂生村、群別村
黄金(こがね)村(二級村) ← 川下村、実田村、柏木村、尻苗村
1907年(明治40年)4月1日、浜益村・黄金村が合併して北海道一級町村制を施行し、浜益村(一級村)が発足。
1913年(大正2年)北海道庁から浜益にリンゴの苗木が交付され、このときも幌が全体の54パーセントを受け取った。すでに幌には果樹の専業農家が現れていたからである。大正から昭和の初めにかけて浜益で盛んとなった果樹栽培は、戦時下になると人手不足や食糧生産の優先を原因として見る影もなく衰退していったが、幌では十数園が踏みとどまって経営を続け、終戦後に再び果樹の需要が増加するまで命脈をつないだ。
2005年(平成17年)10月1日、浜益村が石狩市に編入し浜益村及び浜益郡が消滅。
2023年(令和5年)になっても、幌には3戸の果樹園が残っていた。浜益の中で幌だけ果樹栽培が続いた理由としては、一帯が幌川によって形成された小規模な扇状地であることが挙げられる。「きむら果樹園」4代目の木村武彦は「地面を掘ると石だらけ。水はけがよく、果樹栽培に適した場所だ」と語っている。

 地名由来はアイヌ語で、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では以下の通り。
 ■幌(ぽろ)
  ポロクンべツ<poro-kunpet>大きい・クンべツ川 幌川と群別川はこの辺で二つの長流であり、ごろた石の中の急流である姿も似ていて兄弟のような川なので、こう呼ばれ、それを下略して「幌」と呼んだものらしい。{群別については別掲。}山田秀三地名考

 ■群別(くんべつ)
  ・ポンクンペッ<pon-kun-pet{?}>小石川{?}〈 kunに「小石」の意味があるだろうか。?〉松浦武四郎〈山田秀三補足説明〉
  ・クンペッ<kun-pet{?}>危川{?}〈 kunに「危ない」という意味があるだろうか。?〉永田方正地名解〈山田秀三補足説明〉

群別(くんべつ)の解釈にいづれも疑問符がついていますね
まだ別解釈もあり、クンネペッ<kunne-pet>黒い・川  という説もあります。

「東西蝦夷山川地理取調図」 松浦武四郎 安政六年

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き

大正8年測図地形図

幌稲荷神社

以下は、北海道神社庁サイトから。

【由緒】
 明治18年、三上勝太郎等によって創建された。平成13年7月10日新社殿造営。
【所在地】
〒061-3103 石狩市浜益区幌1200番地
【例祭日】
7月14日
【祭神】
稲荷大神(いなりおおかみ)
【旧社格】
村社

社号標(平成だけど年月日不明瞭)

 

二ノ鳥居

小さめな玉石の手水石(奉納年不明)

 

手水鉢(奉納年不明)

拝殿前から見た風景

かつては旧国道に商店か立ち並びにぎわいもあったのでしょうね

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増毛郡増毛町雄冬 雄冬神社 ~映画「駅 -STATION-」のロケ地にもなった神社

雄冬神社は、北海道増毛郡増毛町雄冬にある神社で神社本庁包括外の神社です。御祭神は保食神(うけもちのかみ)で例祭日は7月23日。

かつて雄冬は「陸の孤島」と呼ばれ、人の往来は海上交通が主体で増毛-雄冬間の定期航路もあったが、1981年(昭和56年)11月10日の国道231号全面開通により、定期航路は後に廃止されました。

1981年(S56)公開、故高倉健主演「駅 -STATION-」のロケ地となった神社で、英次(高倉健)の故郷で妹、冬子(古手川祐子)の結婚式が開かれたのが雄冬神社。

雄冬地区

 雄冬は浜益区の北端に位置しまた増毛町の南西端でもあり、雄冬岬の最突端「タンバケ」以北から赤岩岬を境に岩老と接している。
その中央部にある雄冬集落は、沖合にあるトド岩(海馬島)から陸地に向けて引かれた境界線で南を浜益区雄冬、北側を増毛町雄冬となっていて集落を切断しています。このヘンテコリンな境界線は古くからの漁業権と関係しており、明治時代のニシン漁が盛んな時代は漁業者の争いが絶えませんでした。

1785年(天明5年)、松前藩はそれまでのマシケ場所を2分割し、雄冬岬を境として北を新しいマシケ場所、南をハママシケ場所とした
1870年(明治3年)に当地を巡行した宮島幹の『北行日記』によれば、南から雄冬岬を廻った先の海岸には浜益郡と増毛郡の境界標柱が立っていたという
1871年(明治4年)8月、浜益・増毛両郡を直轄とした開拓使により、浜益郡の最北部を雄冬村とし、増毛郡には岩尾村が置かれ雄冬はその一部とされた
1882年(明治15年)、浜益郡雄冬村は群別村に編入
1896年(明治29年)5月21日、雄冬事件(漁業権の争いで負傷者が出る)が起きる
1900年(明治33年)、岩尾村は近隣の5村9町と合併して増毛町となる
1902年(明治35年)2月、北海道二級町村制の施行により、群別村が茂生村と合併して浜益村となる
2005年(平成17年)、浜益村は石狩市と合併して浜益区となる

増毛郡岩尾村(いわおむら)
北海道:留萌支庁増毛町岩尾村
[現在地名]増毛郡増毛町岩尾・岩老(いわおい)・雄冬(おふゆ)
明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治三三年(一九〇〇)まで存続した村。北は別苅(べつかり)村。明治六年の「天塩国地誌提要」に岩尾村とみえ、三戸(平民)・一二人の定住があり、寄留は三戸(平民)、男八六人・女六人であった。鰊漁の隆盛とともに同二四年には戸数六七戸・三一一人と増加した。また艀漁小廻船一一一(徴発物件一覧表)。明治二〇年ブヨシ(武好)駅逓が当地に移転・新築され(増毛町史)、増毛山道の通行が便利になった。伝統芸能の雄冬神楽(町指定文化財)は明治二年頃から始まったという。同二九年雄冬沖の海馬(とど)島付近の漁場をめぐって浜益(はまます)郡漁民と増毛郡漁民の間で紛争が起き、同三〇年両郡漁業組合は和解、この付近は入会漁場となった(増毛町史)

浜益郡雄冬村(おふゆむら)
北海道:石狩支庁浜益村雄冬村
[現在地名]浜益郡浜益村大字群別村(くんべつむら)
明治初年(同二年八月―同六年)から明治一五年(一八八二)までの浜益郡の村。郡の最北端に位置する。近世はヲフイなどと記録される地域。

 

 雄冬の地名由来はアイヌ語で、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では以下の通り。
ウフイ<uhuy>燃える、焼ける
   ①昔、ここに雷が落ちて近辺が焼けたため。上原熊次郎地名考
   ②海岸の絶壁には赤い岩層が大きく、目立つように露呈している。それでuhuyという名で呼ばれたのではなかろうか。{松浦氏は『西蝦夷地名考』で「赤岩にて焼き岩の如く見ゆる」と書いている。}山田秀三地名考

同リストでは 『山田解釈が自然なように思われる。』とコメントを残しています。

ただ、ウフイ(燃える)という単語のみで地名になるとは思われず、ウフイ~と後ろに続いていたのが省略された形になったのでしょうね。

実測切図にはウフイプと見え、uhuy-p燃える所の意味ですね

「東西蝦夷山川地理取調図」 松浦武四郎 安政六年

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き

大正8年測図地形図

雄冬神社

以下は、北海道神社庁誌(1999、絶版)神社本庁包括外神社-未公認神社の項から。
【由緒】
 江戸末期の創立と云う。町内雄冬地区の鎮守。
【所在地】
増毛町大字雄冬村
【例祭日】
七月二十三日
【祭神】
保食神(うけもちのかみ)
【旧社格】
-

雄冬神楽(増毛町指定無形民俗文化財)
[公開の期日]雄冬神社祭(1月2日)

増毛町唯一の無形民俗文化財です。
 1879(明治12)年に雄冬地域に神楽舞が伝承され、1891(明治24)年に稲荷神社を現在の場所に移転した際、八戸出身の神楽笛の名手を中心に、再編成、いくつかの舞を加えて現在の形に完成しました。以来、家内安全・大漁祈願を願い伝承されてきました。松前神楽の流れや八戸地方の太神楽の祭事の影響がみられる踊りです。
 現在は、清めの舞い「御幣舞」にはじまり、めでたく鯛を釣る恵比寿舞まで14の演目が現存しています。

残念ながらこの先を見据えた伝承者がいないようで、この伝統芸能も存続の危機を迎えている。

雄冬岬展望台が見えます。行きたかったのですが今季の営業は終了していました(残念)

そしてかなりの高さのある崖も特徴的で柱状節理が発達しています。

 

雄冬集落一帯は巨大な地すべり地形の陸上部末端にあり、その膨大な岩石を含む土塊は沖合の海底まで分布しています。先程の崖は地すべり境界になります。

 

一ノ鳥居

手水舎(手水石の奉納年は不明)

 

うわーっ

 

岩石ゴロゴロ

 

二ノ鳥居

拝殿前に石灯籠一対(建立年不明)と狛狐一対(昭和52年7月20日建立)

 

 

拝殿右手に山ノ神と大平山三吉大神

 

 

拝殿左手に故布施作太郎氏とある顕彰碑(誰なのか分かりません^^; )

 

さてと帰りますか

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増毛郡増毛町別苅 別苅(べつかり)恵比須神社 ~文政年間(1818-1831)の狛犬~

 正式名称は恵比須神社(えびすじんじゃ)だが、アチラコチラにあることから便宜上、地名を付けた形で以降呼ぶこととします。

 別苅恵比須神社(べつかりえびすじんじゃ)は、北海道増毛郡増毛町別苅にある神社で旧社格は村社。御祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)で例祭日は6月20日。別名「別苅神社」

 留萌から増毛を抜け海岸線を通ってきた道もこの先からは山側のトンネルが続く道へと変わります。昔は雄冬峠がありクネクネ曲がった走ってても飽きの来ない道でしたがトンネル開通とともに廃道となり、現在は直線の長い楽なトンネル道となりました。神社からはカムイエト岬とその断崖が見えます。

別苅地区

 かつての別苅(べつかり)村であり、明治初年(同2年8月から同6年の間)から明治33年(1900)まで存続した村で、明治33年7月に増毛村を含む九ヵ町六ヵ村の合併により増毛町となり、別苅村は消滅しました。

 南西隣は岩尾(いわお)村、北東隣は増毛村。明治六年の「天塩国地誌提要」に別苅村とみえ、平民六五戸・アイヌ九戸、平民男一五四人・女一二一人、アイヌ男一二人・女一五人の定住があり、寄留は平民男三三四人・女一九人であった。同一二年の「共武政表」に戸数八三・人口三五三、馬四、船舶三六一、物産は鰊・鮭・鮑・煎海鼠・馬鈴薯とある。同二四年には二六八戸、男七五九人・女五九四人、馬九、五〇石以上船一・艀漁小廻船六〇六となっている(徴発物件一覧表)。


増毛町史跡ガイドマップ「24.別苅発祥の地」から(大別苅漁港近くに標柱あり)
ここには、1750年頃に松前の商人である村山伝兵衛によって、出張運上屋が設置されました。
これを機に別苅地域にも本州から多く和人がやってくるようになり、集落としての定住が進んでいきます。
運上屋の裏の小高い場所には恵比寿を祀り、漁場の守護神として神社を建立しました。この恵比寿神社は明治9年に現在の場所へと移設されています。
別苅という地名が確認できる一番古い資料を探していくと、幕府が全国の石高を調査した元禄郷帳に「ベツカリ」という地名が見つかります。「崖のこちら側」というアイヌ語「ペシ・トゥカリ」が元になっていると考えられます。

 地名由来はアイヌ語で、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では以下の通り。
ペㇱトゥカリ<pes-tukari>崖壁の此方(崖壁の行き留り) {断崖・の手前}  〈正にその地形である。〉永田方正地名解〈山田秀三補足説明〉

「東西蝦夷山川地理取調図」 松浦武四郎 安政六年

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き

大正8年測図地形図

別苅恵比須神社

以下は、北海道神社庁サイトから。

恵比須神社
【由緒】
 マシケ場所初代請負人阿部屋村山伝兵衛が宝歴3年マシケ場所請負に伴ない、増毛に運上屋を大別苅川尻に出張運上屋を設け、この出張運上屋の守護神として天明8年創立され、明治9年村社に列格、昭和21年宗教法人設立、平成元年御鎮座二百年祭を斎行した。
【所在地】
〒077-0217 増毛郡増毛町大字別苅村字萌
【例祭日】
6月20日
【祭神】
事代主神(ことしろぬしのかみ)
【旧社格】
村社

一ノ鳥居(鋼製鳥居)

手水石は昭和10年6月2日奉納

 

参道右に別苅連合自治会館

対面に物品庫か神輿庫?

二ノ鳥居(鉄筋コンクリート製で表面は化粧コンクリート)

かなり剥離しており、このまま鉄筋むき出しだと倒壊の恐れあり。

 

石灯籠一対(安政7年◯月吉日?と見える)

 

狛犬一対(建立年不明。台座には惣番人中の文字が見え、対の方は判読不能。舎熊神社や増毛厳島神社に似た意匠の狛犬がある[後述])

 

右側の顔が崩壊しており仮面のように見える

 

明治大学人文科学研究所紀要 第90冊 (2023年 3 月31日)
石造狛犬の類型と分布に関する野外調査を主とした網羅的研究 -岩手県の石造狛犬を事例として
明治大学人文科学研究所 川野明正 p.437から

丸浦正弘氏の『ほっかいどうの狛犬』によれば,北海道増毛厳島神社・舎熊神社・別
苅稲荷神社などにも文政年間(1818-1831)(から文久年間〈1861-1864〉の可能性がある)の宮古型狛犬がある[丸浦 2007: 174-176]。

とあり、これらの狛犬は神社創祀の天明8年(1788)より以降で文政年間のものと見られる。

 

神社から見える大別苅方面の崖とカムイエト岬

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【御朱印】増毛郡増毛町 増毛厳島神社 ~マシケ場所の歴史とともに歩んできた神社~

正式名称は厳島神社(いつくしまじんじゃ)だが、アチラコチラにあることから便宜上、地名を付けた形で以降呼ぶこととします。

増毛厳島神社は北海道増毛郡増毛町稲葉町3丁目38番地にある神社で旧社格は郷社。御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、保食神(うけもちのかみ)、神龍宇賀之霊神(しんりゅううがのみたまのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、小彦名神(すくなひこなのかみ)で例祭日は7月13日。

神社は、増毛町市街地にある増毛町役場の道路を挟んだ隣にあり、尾根状台地の先端部に当たります。ちょっと狭い境内にはいろいろな古いものがたくさんあり、あれもこれもと見ているうちに時間が過ぎていく場所でした。

増毛町

江戸時代の増毛郡域は西蝦夷地に属し、松前藩によってマシケ場所が開かれていました。
宝永年間(1704-1711)松前氏は漁場の区域を定め、マシケ場所を家臣下国兵太夫の采地としました。
当時のマシケ場所は浜益と増毛にまたがるものでした
1751年(宝暦元年)ころに商人村山伝兵衛がマシケ場所を請け負い、増毛に出張番屋を設けてアイヌとの交易が行われた。
1785年(天明5年)マシケ場所はマシケ場所(増毛)とハママシケ場所(浜益)に分かれる。
1807年(文化4年)南下政策を強力に進めるロシア帝国の脅威に備え幕府直轄領となり、文化6年津軽藩が増毛勤番越冬陣屋を築き警固を行った。
1821年(文政4年)松前藩領に復帰。
天保年間(1830~1844)には、北上したニシンを追って増毛や留萌の各場所への出稼ぎが許可されたため、道南各地から漁民が入地し漁業集落が形成され、「千石場所」とよばれるニシン漁の好漁場であった。
1855年(安政2年)蝦夷地が再び幕府直轄領となり、マシケには久保田藩(秋田藩)が元陣屋を構え、留萌郡以北は庄内藩が留萌・苫前・天塩に出張陣屋を築き、警固を行った。
1857年(安政4年)(寛政8年(1796年)との資料もある)に幕府の命を受けて浜益・増毛両場所請負人伊達林右衛門が自費を投じ増毛山道を開削している。この道は南の石狩国浜益郡から増毛に至る9里(35.3km)余を結ぶ目的で浜益、増毛の両場所請負人伊達林右衛門が自費を投じ工事を行ったものである。この他、増毛山道よりも海側に開削年不詳であるが石狩国浜益郡の千代志別と雄冬を結ぶ雄冬山道(雄冬山道は岩老まで海岸を進み、そこから山に入って増毛山道に合流)も存在した。
1859年(安政6年)の6藩分領以降、増毛郡(マシケ)は秋田藩領、留萌郡北は庄内藩領となっていた。

1897年(明治30年)11月 増毛支庁を設置。
1900年(明治33年)7月1日 増毛郡増毛市街9町、増毛村、別苅村(べつかり)、岩尾村、暑寒沢村(しょかんざわ)、阿分村(あふん)、舎熊村(しゃぐま)が合併、一級町村制、増毛郡増毛町になる。
1914年(大正3年) 支庁を留萌に移転、留萌支庁に改称。
1921年(大正10年)11月5日 留萠線(現留萌本線)が増毛まで開通。
1981年(昭和56年)11月10日 南方の断崖絶壁により開通できていなかった雄冬地区までの国道が開通。
2016年(平成28年)12月:留萌本線の増毛駅-留萌駅間が廃止。

 地名由来はアイヌ語で諸説あり、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では以下の通り。

マシケイ〈マケ〉<mas-ke>カモメの成る〈カモメ・の所〉この海湾一面にニシンが群来る時はカモメで一杯になるため。 〈元来は浜益(浜益毛)の所の名であったが、そこの運上屋をここに移してから、ここが増毛といわれるようになったのだという。〉松浦武四郎〈山田秀三補足説明〉

現増毛のあるところの古い地名はホロトマリといい、明治初年に増毛村に含まれた。
正保日本図(高木崇世芝氏蔵)に「ホロトマリヱソ」、「津軽一統志」および「狄蜂起集書」ともに「ほろ泊 狄あり」、元禄郷帳に「ほろとかり」とあるほか、「ホロトマリ」(「和漢三才図会」所載蝦夷之図、「蝦夷志」)、「ポロトマリ」(西蝦夷地日記)、「ボロトマリ」(西蝦夷地名考)などと記され、また「ほろ泊り」(享保十二年所附)、「ポロ泊」(板本「西蝦夷日誌」)ともある。「地名考并里程記」でも「大いなる澗と訳す」という。「行程記」にマシケの「本名ホロトマリといふ」とある。「西蝦夷地場所地名等控」に増毛之内ポロトマリとみえ、天保郷帳でもマシケ持場のうちとして「ポロトマリ」とする。

「東西蝦夷山川地理取調図」 松浦武四郎 安政六年

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き

大正8年測図、昭和6年鉄道補入地形図

増毛厳島神社

明治9年(1876年)に増毛郡総鎮守の厳島神社となり、当時は港のそばにありましたが、明治14年(1881年)に弁天町4丁目、同26年(1893年)に現在の稲葉町に遷座されました。

以下は北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 宝永年間(1704-1711)松前氏は漁場の区域を定め、増毛場所を家臣下国兵太夫の采地とした。渡島国松前の商人村山伝兵衛は下国兵太夫に代わって運上屋を設け漁業並びに人事に関する諸般を管理支配するにあたり、運上屋の守護神として厳島神社を祀った。安永天明のころ伊達浅之助がこれに代り、後文化年中伊達林右衛門が管理支配する。文化13年7月伊達氏が平素から深く尊崇していた安芸国厳島神社より市杵島姫命の御分霊を奉斎した。文久元年5月社殿を再建し明治9年増毛郡総鎮守として社格を郷社と定め開拓使より御神霊を奉られ、同年7月15日に正遷座祭を執行した。明治26年安芸国厳島神社より御分霊を奉斎し、同年4月24日遷座祭を執行した。明治32年社殿を移転落成し、同年本殿新築の議起り同34年落成遷座祭を執行した。昭和42年、開道百年の遺跡として、道知事より指定を受ける。平成2年、本殿を増毛町有形文化財指定第1号に指定される。
合併により合祀された歴史をもつ御祭神
三吉神社 大己貴神・小彦名神 安政3年創祀 平成8年9月合祀
【所在地】
〒077-0204 増毛郡増毛町大字稲葉町3丁目38番地
電話 0164-53-2306
【例祭日】
7月13日
【祭神】
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
保食神(うけもちのかみ)
神龍宇賀之霊神(しんりゅううがのみたまのかみ)
大己貴神(おおなむちのかみ)
小彦名神(すくなひこなのかみ)
【旧社格】
郷社

【社宝等】
額(7点)(「奉納絵馬」江戸時代後期の作)

社号標(昭和12年建立)

 

一ノ鳥居(弘化2年 (1845)にマシケ場所支配人阿部喜兵衛が奉納したもの)

左:マシケ支配人 阿部喜兵衛 惣番人中 右:弘化二年乙巳(きのとみ)年三月日

 

石灯籠一対(万延2年(1861)3月にマシケ場所支配人黒沢直右衛門が奉納したもの)

 

萬延二辛酉(かのとのとり)年三月建立 マシケ支配人黒沢直右衛門 番人中

 

狛犬一対(手持ち資料には文政年間(1818年~1830年)奉納者不詳とある)

 

 

石碑「当静」(手持ち資料には嘉永2年(1849) マシケ場所支配人阿部喜兵衛とある)

手水舎(手持ち資料では手水鉢 天保2年(1832)マシケ場所請負人伊達林右衛門とある)

  

石灯籠一対(平成26年4月吉祥日建立)江戸後期の面々からいきなり182年も過ぎたのである(笑)

 

狛犬一対(昭和17年建立)

 

 

厳島神社本殿と奉納絵馬の説明板

 

拝殿手前左に領布所

拝殿前の狛犬一対(明治30年7月?建立)ひび割れがすごくこのままだと崩壊しそう

 

 

 

 

拝殿の彫刻は松に鶴

裏面も彫り込まれています

木鼻は獅子と獏で目玉がないとおっかねえ・・・

 

扁額は奥 保鞏(やすかた)書[日露戦争時は第2軍司令官]明治39年(1906)玉川初五郎奉納

 

雲龍之天井画 江戸後期(不詳)狩野昭信 奉納 マシケ場所請負人伊達林右衛門

格天井之絵 昭和10年(1935)平子聖龍画

神輿庫

御朱印

住宅権社務所にていただきました

お忙しい中ありがとうございました。

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増毛郡増毛町舎熊 舎熊(しゃくま)神社 ~文政9年(1826)の狛犬~

舎熊神社(しゃくまじんじゃ)は北海道増毛郡増毛町舎熊244番地にある神社で旧社格は村社。御祭神は事代主大神(ことしろぬしのおおかみ)、保食大神(うけもちのおおかみ)で例祭日は7月20日。

留萌から増毛に向かう途中の信砂川を渡った先が舎熊であり、舎熊バス停の直ぐ側に神社はあります。境内隣には舎熊連合自治会館という強そうな名前(笑)の建物があり分かりやすいですね。

参拝には時期によりますが蚊が多いので虫よけスプレーが必須です。

舎熊地区

 かつての舎熊(しゃくま)村であり、明治初年(同2年8月から同6年の間)から明治33年(1900)まで存続した村で、明治33年7月に増毛村を含む九ヵ町六ヵ村の合併により増毛町となり、舎熊村は消滅しました。

 1843年(天保14年)雄冬(おふゆ)岬以北の追鰊が解禁されるに伴い、多くの漁夫が鰊を求めて入り込み定着しました。「北行日記」に「ホントマリ番屋壱軒、シヤクマ此辺ハ尽ク増毛ヨリ人家続キナリ、海岸ハ鯡猟場ナリ」とある(明治三年八月二二日条)。明治6年「天塩国地誌提要」に舎熊村とみえ、平民三四戸・アイヌ八戸、平民男六九人・女五九人、アイヌ男二二人・女一〇人の定住があり、寄留は平民男一四七人・女二人(戸数は七戸とする)とある。

 舎熊の地名由来はアイヌ語で、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では以下の通り。

サックマ<sat-kuma>魚乾棚{乾く・物干し棹}山の形状から名付けられたという。〈アイヌの古老の伝承らしい。頂上が平に伸びた山を、よくクマ・ネ・シリ(kuma-ne-sir物乾し棚・のような・山)という。〉永田方正地名解〈山田秀三補足説明〉

イサッケクマ{i-satke-kuma}魚・乾す・棹〈場所がら海岸に乾場があったからの名だろう。〉北海道駅名の起源〈山田秀三補足説明〉

同リストでは 「諸説あり特定しがたい。」とのコメントを残しています。

ちなみにかつてあった鉄道駅は「しゃぐま」と濁った読みです。

「東西蝦夷山川地理取調図」 松浦武四郎 安政六年

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き

大正8年測図、昭和6年鉄道補入地形図

舎熊神社

以下は、北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 文久元年5月渡島国松前郡福山の住人伊達林右衛門が中歌本トマリの守護神として奉斎し、明治10年頃舎熊に遷座した。明治17年本殿を建築し事代主神を奉祀し、恵比須神社と称した。同32年7月舎熊神社と改称し保食神を合祀した。昭和15年村社に列格し昭和21年宗教法人となった。
【所在地】
〒077-0132 増毛郡増毛町大字舎熊村字舎熊244番地
【例祭日】
7月20日
【祭神】
事代主大神(ことしろぬしのおおかみ)
保食大神(うけもちのおおかみ)
【旧社格】
村社

舎熊バス停

強そうな名前の自治会館

社号標(昭和16年8月建立)

 

古神札納所

木製鳥居があった跡の基礎?

 

御影石の一ノ鳥居(建立年不明)

御影石の石灯籠一対(願主 福島屋榮右衛門 上野房治郎、建立年不明)

 

御影石の二ノ鳥居(建立年不明)

小さな狛犬①一対(そっぽ向いてます。惣番人中とあり奉納者は不明だが運上屋関係でもう一対と同じ建立年と思われる)

 

 

 

小さな狛犬②一対(正面を向いてます 文政九年戌三月?)

 

 

明治大学人文科学研究所紀要 第90冊 (2023年 3 月31日)
石造狛犬の類型と分布に関する野外調査を主とした網羅的研究 -岩手県の石造狛犬を事例として
明治大学人文科学研究所 川野明正 p.437から

丸浦正弘氏の『ほっかいどうの狛犬』によれば,北海道増毛厳島神社・舎熊神社・別
苅稲荷神社などにも文政年間(1818-1831)(から文久年間〈1861-1864〉の可能性がある)の宮古型狛犬がある[丸浦 2007: 174-176]。

とあり、狛犬は神社創祀より前のものと見られる

 

たぶん神輿庫

小さな手水舎(奉納年不明、藤田直吉)

 

狛犬一対(平成23年7月吉祥日建立)

 

境内社(稲荷神社)

扁額は割れて上部が無くなっています

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