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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

【御朱印】茅部郡鹿部町本別 出来澗(できま)稲荷神社

出来澗稲荷神社(できまいなりじんじゃ)は、北海道茅部郡鹿部町本別540-171(旧鹿部町字出来澗)にある神社で旧社格は無し。御祭神は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)で例祭日は8月28日。

 出来澗漁港へと向かう道の交差点付近の高台に赤い鳥居の神社があり、小さいながらもちょっと目立つ存在です。

出来澗崎(できまざき)

 1640年(寛永17年)に北海道駒ヶ岳が噴火し、山体崩壊によって発生した駒ヶ岳噴火津波により700人余りが溺死し舟100隻余りが破壊。この時の噴火は、古文書に記録の残る江戸時代以降の駒ヶ岳の噴火の中でも最大規模であるのと、日本国内では1792年島原大変肥後迷惑(雲仙眉山)、1741年寛保津波(渡島大島)に次ぐ、史上3番目に大きな火山津波災害となりました。

 寛永17年6月13日(1640年7月31日)、北海道駒ヶ岳は大規模な噴火活動を開始し山頂部が崩壊して大規模なクルミ坂岩屑なだれが発生しました。まず山体南斜面が崩壊し折戸川を堰き止めて大沼・小沼を形成しました。その後、山体東斜面が崩壊し噴火湾に流入し、この岩屑なだれは海底に広く分布していることが確認され、沖合約8kmにまで広がっています。この東に流下した陸上部の先端が出来澗崎で、この時に大津波が発生し亀田から十勝にかけて津波を記録したとされ、有珠(現在の洞爺湖町有珠)では津波の高さが7.5 mに達したというこの津波の堆積物は森町鷲ノ木から白老町社台までの4地点で確認されています。

 元々は標高1,700 mの円錐形の山体であった駒ヶ岳が、現在のような標高1,100 mの2つの馬蹄形カルデラを持つ山体となったのも、この時の山体崩壊が原因である

 出来澗の地名由来は不明ですが、和名で「噴火で出来た入江」の意味で「北海道地名誌」(NHK北海道本部、1975)にも『出来澗崎(できまざき)本別の北、噴火によってできた澗のところにある崎の意。』とありましたね。

 古い文献で地名が出てくるのは、寛政三(一七九一)「えぞのてぶり」に出来間とあり、安政二(一八五五)「東蝦夷地海岸図台帳  御持場海岸大旨之図」にテケマ、弘化二(一八四五)「蝦夷日誌 巻五」にテケマ、万延元(一八六〇)「東西蝦夷山川地理取調図」にテケマと見える。

東西蝦夷山川地理取調図

出来澗稲荷神社

以下は、北海道神社庁誌(1999、絶版)未公認神社の項から。
【由緒】
 明治の末頃、平沢利吉が出来澗に来住して祀ったのが神社の起源と伝えられている。昔は海側にあったのを昭和四年駒ヶ岳の噴火後、現在地に遷座した。その後社殿の腐朽甚だしく昭和六十三年九月二十七日改築落成の上、御遷座祭並びに方祝祭を斎行し現在に至る。(参考文献:鹿部町史)
【所在地】
鹿部町字出来澗(現:〒041-1404 北海道茅部郡鹿部町本別540-171)
【例祭日】
8月28日
【祭神】
倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
【旧社格】
-

鳥居の他には何もなくちょっと寂しいですね

近くのひょうたん沼に寄ってみました

一周する散策路もあり芝もきれいに刈り込んで整備され気持ちのいい場所です。

御朱印

鹿部稲荷神社で稲荷印ですが書いていただきました。

お忙しい中ありがとうございました。

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【御朱印】茅部郡鹿部町大岩 大岩稲荷神社

大岩稲荷神社(おおいわいなりじんじゃ)は、北海道茅部郡鹿部町大岩111-12にある神社で旧社格は無し。御祭神は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)で例祭日は不明。

 鹿部町役場付近の国道バイパス交差点を、特別養護老人ホーム「渡島リハビリステーションセンター」へと曲がり、そのまま道なりに舗装道路を行くと道が無くなる通行止めの右側に神社はあります。周囲は民家も無くすごく寂しい所で、夕方参拝なのですが熊が出そうでちょっと怖いです。

大岩地区

 神社のある場所は現在は大岩地区と呼ばれているが、古い時代には神社隣りにある常路川を挟んで鹿部側がザルイシ、南茅部側がトコロと呼ばれ、菅江真澄の「えぞのてぶり」の寛政3(1791)年5月の記述にネタナイ、ウスジリ、ボヲロを過ぎて、トコロザルイシ、シュシュベツ、カムイ、シリカベツ(シカベ)、スクノヘ、ホンベツ、相泊の様子が描かれる。トコロには、運上屋があり、その隣にアイヌのチセがあったらしい。1845年(弘化2年)の蝦夷日誌には「シシベ 同じく岩石さき也、ザル石 少しの沢目にて細流れ 昆布取小屋有 〈中略〉トコロ川 此川 臼尻、シカベの境なり 越て岩石原少し行て、トコロ 夷人小屋一軒 昆布取小屋左右に多し 少し行て、五段瀧」とある。

 江戸時代にトコロはオサツベ場所に含まれ、のちウスジリ領(持)となり、明治13年には熊泊村(現南茅部町)支トコロ、翌明治14年に分割して鹿部村に移された。1876年(明治9年)漁場収穫高調書」では所呂―大岩―亀泊と常路の隣に大岩の記述が出てきている。昭和15年6月15日鹿部村の字名地番改正により常路地区は大岩と改められ、旧地名は常路川にその名残をとどめています。

 常路の地名由来はアイヌ語から来ていますが諸説あり、アイヌ語トー・コロ、沼湖水のあるところに由来するとも、「地名解」には「差出たる処、又土地の出来たる処」ともされるが、菅江真澄は「トコロという磯に船をつけた。ここに萆薢(ところ)のカツラが多いので、その名があるのだろうか。」と残しており、萆薢はヤマイモ科の多年生の草根で自然生芋ともいわれ食用にしました。また明治15年の「鹿部村トコロ名称ノ儀上申」においても「「アマトコロ」ト称フル草繁生、土人或ハ昆布取リ入稼ノモノ之ヲ掘テ其根ヲ食セシヨリトコロノ字ヲ付シタル様子」としている。
「ザル石」については地名解がみられないが、菅江真澄はアイヌ語で「ザルウシ」と記録している。「ザル」は「サル」<sar>の転訛したもので「葦原、湿地、沼地、薮」のことで「-ウシ」<us-i>は「-群生する、-あるところ」の意とみられる。海岸にはそのような場所は見受けられないが、段丘上の古い河岸段丘崖とみられる崖と海岸段丘崖が接する部分は低みになり水が湧いているとのことであった。

現在の大岩の由来は和名で、「大きな黒い岩があった(角川地名大辞典1)」ことから名付けられたとあります。

東西蝦夷山川地理取調図

20万分1北海道実測切図  北海道庁 明治23-大正9年 (1890-1920)

大正4年測図 地形図

大岩稲荷神社

以下は、北海道神社庁誌(1999、絶版)未公認神社の項から。
【由緒】
 東蝦夷地道中畧記にトコロ「稲荷の宮あり」と記され、寛政年中(一七九〇年代)より以前にあったとされ、古老の話では、現在の椎野家の西側の山裾に神社があり、境内に湧く岩清水は、稲荷さんの水といった。昭和十五年に大岩と字名改正したが、同二十年七月十五日の鹿部空襲で損失したので、ちがいさんぎ(乂編の下に川と書かれた漢字)の山の竜神社に遷した。戦後、山上に社殿を建立して遷座、昭和三十一年鹿部神社の旧社殿の一部を移して増改修した。(参考文献:鹿部町史)
【所在地】
鹿部町字大岩(現〒041-1401 北海道茅部郡鹿部町大岩111-12)
【例祭日】
不明
【祭神】
倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
【旧社格】
-

鳥居には奉納 昭和56年6月吉日 氏子一同とある

報恩の碑(平成13年春建立)

 

御朱印

鹿部稲荷神社で稲荷印ですが書いていただきました。

お忙しい中ありがとうございました。

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【御朱印】函館市恵山町(旧恵山町恵山) 恵山厳島神社

正式名称は厳島神社ですが、あちらこちらにあるので地名をつけた形で以降、当ブログでは呼ぶことにします。

恵山厳島神社(えさんいつくしまじんじゃ)は、北海道函館市恵山町129番地にある神社で旧社格は無格社。御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で例祭日は7月5日。

海岸線沿いの道道元村恵山線を進むと恵山集落の中心部に神社はあり、シンプルで小さな神社さんです。歴史背景から当厳島神社は函館市弁天町の厳島神社からの御分霊と思われる。

恵山地区

 かつての尻岸内村根田内(ねたない)であり、昭和8年4月10日字名・地番改正で根田内→恵山になりました。1964年(昭和39年)11月1日に町制施行により尻岸内町に。1985年(昭和60年)4月1日に恵山町に改称。2004年(平成16年)12月1日には戸井町・椴法華村・南茅部町・恵山町が函館市に編入されました。

 根田内(ねたない)は天保郷帳にみえる地名で、尻岸内(しりきしない)持場の一つ。北東の恵山岬へ続く海岸一帯にあたる。1702年(元禄15年)元禄郷帳の従是蝦夷地に「ねた内」、1727年(享保12年)享保十二年所附には「禰多内」と記される。1731年(享保16年)の津軽一統志に「ねたない 小川有 狄おとなアイツライン」とみえる。「蝦夷迺天布利」によると菅江真澄は寛政三年(一七九一)五月二七日、小安おやす浦(現戸井町)より掻送り舟で戸井とい(現同上)、日浦(ひうら)・古武井(こぶい)の沖を行き「ネタナヰといふ処こたんに泊」まっている。「蝦夷日誌」(一編)には「行程記」を引用し、「子タナイ入口ヨリ 根田内出口へ 十丁 人家三十五軒」としている。

 根田内の地名由来はアイヌ語らしく、ネツオナイ(ネトナイ)<net-o-nay>(漂木・ごちゃごちゃある・川)から来ているらしいです。

 恵山の地名由来はアイヌ語で、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では、
エサンイ(エサニ)<e-san-i>[頭が・浜の方に出ている・所=岬]地形(岬)から名付けられた。山田秀三 北海道の地名
イエサン<ye-san>[噴火山(浮石・下る)]噴火により、火を噴き浮石を飛ばしたため。永田方正地名解
これらの説に対し当リストでは「  [岬]説が自然な形と思われる。」という補足を付けています。

東西蝦夷山川地理取調図から

恵山厳島神社

以下は、北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 当社の創立年代は第106代桃園天皇の御代宝暦元年9月にして明治9年無格社に列す。明治34年9月30日暴風の為、社殿破損の旨届出明治38年10月付改築出願。同39年1月1日付許可。同年3月28日落成。昭和21年宗教法人令に依る手続を了し更に昭和26年宗教法人となる。
【所在地】
〒041-0522 北海道函館市恵山町129番地
【例祭日】
7月5日
【祭神】
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
【旧社格】
無格社
【社宝等】
掛図
【特殊神事】
松前神楽

鳥居は昭和31年6月建立、恵山部落會

 

狛犬一対(黒っぽい凝灰岩の狛犬です。大正13年12月建立)

 

  

荒々しい自然石の手水石

 

 

 

御朱印

尻岸内八幡神社にて参拝した写真を見せ御朱印をいただきました

お忙しい中ありがとうございました。

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【御朱印】函館市古武井町(旧恵山町古武井) 海積(わだつみ)神社

海積神社(わだつみじんじゃ)は、北海道函館市古武井町37番地にある神社で旧社格は無格社。御祭神は海津見神(わだつみのかみ)で例祭日は7月2日。

国道278号を離れ恵山市街地に向かう道道元村恵山線に入り少し進むと、古武井集落にある旧道との分岐がありますのでそれを進むと山側に神社が見えます。

古武井地区

 かつての尻岸内(しりきしない)村昆布井(こぶい)であり、いつの頃から昆布井→古武井になったのかは不明。村は1964年(昭和39年)11月1日に町制施行により尻岸内町に。1985年(昭和60年)4月1日に恵山町に改称。2004年(平成16年)12月1日には戸井町・椴法華村・南茅部町・恵山町が函館市に編入されました。

 古武井は天保郷帳にみえる地名で尻岸内持場の一つであり、現町域の北部からほぼ南流する古武井川の流域一帯にあたる。1702年(元禄15年)の元禄郷帳の従是蝦夷地に「こぶい」、1727年(享保12年)享保十二年所附には「一 知岸内(中略)昆布居」とある。「コブト」(松前広長「松前志」)、「コフイ」(松前国中記)などとも表記される。「蝦夷商賈聞書」によれば「コブイ」は松前藩家老蠣崎内蔵丞の預で、産物は赤昆布・ウンカ昆布・黒昆布・シノリ昆布・フノリ、秋の猟は鮫・鰤。1731年(享保16年)の津軽一統志に「こふい から家二、三軒」とみえる。

 地名由来はアイヌ語らしく諸説あるが、山田秀三「北海道の地名」では
「古い地名だが意味が分からない。戸井のムイ島との関係で考える説も古くあったが、遠すぎる。元来の位置は、谷元旦蝦夷紀行に「石浜を過、ヲタ浜のタツツケに出、此処砂浜也、コフイ川を渡り浜中に入間あり、ホントマリという。又入間ありヤマセトマリと云う」とある処から察せられる。ヤマセトマリ(山背泊)は根田内(恵山)部落の西のはずれの処で、コフイ川は今の古武井川(相当な川)であろう。この一帯砂浜である。永田地名解はこの辺を「オタ・シュツ。沙傍。和人オタハマと云う」と書いた。元来の古武井はその辺のことであったろう。この辺、モイ(入江)がムイと呼ばれることが多い。もしかしたらそのムイに武井と当て字されたのかもしれない。」
要約すると、元来の古武井があった場所は古武井川周辺のあたりで古くはオタハマと呼ばれていた。この地域ではモイ(入江)がムイ呼ばれる事が多いのでムイ=武井となりました。ということですが前半との繋がりがわからない…

永田方正「北海道蝦夷語地名解」を読むと、「ウフイ ヌプリ Uhui nupuri 噴火山《「オフイヌプリ」ト云フ義同ジ松前人「コブイ」ト云フハ「オフイ」ノ訛ナリ此山ハ噴火ノ休山ニシテ硫黄ヲ以テ著ル」》
本田貢「北海道漢字解」でも、「ウフイuhui・ヌプリnupuri =火山」とあり、上記のことを言っているのでしょう。

東西蝦夷山川地理取調図から

海積神社

以下は、北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 当社の創立年代は第106代桃園天皇の御代宝暦3年4月にして明治45年5月20日社殿腐朽甚しく且つ狹隘の為改築出願、大正元年9月17日許可、同年11月11日落成届出。明治9年に無格社に列する。昭和21年宗教法人令の手続を経て更に昭和26年宗教法人となる。
【所在地】
〒041-0524 北海道函館市古武井町37番地
【例祭日】
7月2日
【祭神】
海津見神(わだつみのかみ)
【旧社格】
無格社
【社宝等】
掛図
【特殊神事】
松前神楽
【境内外末社】
稻荷神社(いなりじんじゃ) 倉稻魂命(うがのみたまのみこと)

階段を上がった左に手水石(奉納年は不明瞭だが昭和30年11月?らしき文字が)

 

石灯籠一対(建立日不明)

 

社殿右手に大海津見神と刻まれた碑

なにかの石碑を取り壊した後で台座のみあります

 

社殿左には境内社の稲荷神社:倉稻魂命(うがのみたまのみこと)

参道正面には海があるのですが間に倉庫がありちょっと…

御朱印

尻岸内八幡神社にて参拝した写真を見せ御朱印をいただきました

お忙しい中ありがとうございました

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【御朱印】函館市日浦町(旧恵山町日浦) 日浦稲荷神社

正式名称は稲荷神社ですが、あちらこちらにあるので地名をつけた形で以降、当ブログでは呼ぶことにします。
日浦稲荷神社(ひうらいなりじんじゃ)は、北海道函館市日浦町185番地にある神社で旧社格は無格社。御祭神は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)で例祭日は7月10日。

 国道278号を恵山方面に進み日浦トンネルを抜けると日浦集落があり、日浦川に架かる日浦橋を過ぎた所にある細い旧道?の山側に神社はありますが、車を停める場所がなく苦労します。

駐車できる場所を見つけ神社に来てみたところ、なんと!改修工事中で立ち入り禁止でした…残念です…

 

日浦地区

 かつての尻岸内(しりきしない)村日浦で、村は1964年(昭和39年)11月1日に町制施行により尻岸内町に。1985年(昭和60年)4月1日に恵山町に改称。2004年(平成16年)12月1日には戸井町・椴法華村・南茅部町・恵山町が函館市に編入されました。

 天保郷帳にみえる地名で、尻岸内持場の一つ。日浦川河口に位置し、1727年(享保12年)享保十二年所附には「一 厚木 鎌か哥 鎌か下 ひ浦」とみえる。1731年(享保16年)の津軽一統志に「ひゝら 船澗有」、寛文拾年狄蜂起集書に「ひうら」とあり、「ヒウラ」(松前国中記)、「ヒウチ」(松前広長「松前志」)、「檜浦」(蝦夷迺天布利)などとも記される。1780年代は木村又八の知行所(松前国中記)。

 地名由来は和名かと思いきやアイヌ語らしく、「永田方正蝦夷地名解」では<hura-wen>[におい・悪い]、フーラウエンあるいはファラウェンと発音するとある。このhuraの部分が転訛し、後に朝日の当たる湾の地形から「ヒウラ」に「日浦」の漢字を当てはめたといわれています。

東西蝦夷山川地理取調図から

日浦稲荷神社

以下は、北海道神社庁サイトから。
【由緒】
  当社の創立は社記に依れば第106代桃園天皇の御代宝暦3年3月創立、明治9年無格社に列する。昭和2年改築出願、昭和3年落成届出現在に至る。其の後昭和21年宗教法人令施行に依る手続を了し更に昭和26年宗教法人となる。
【所在地】
〒041-0401 北海道函館市日浦町185番地
【例祭日】
7月10日
【祭神】
倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
【旧社格】
無格社
【社宝等】
掛図
【特殊神事】
松前神楽
【境内外末社】
嚴島神祠(いつくしまのかむほこら) 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)

悔しいので国道から望遠で狙ってみました😢

御朱印

尻岸内八幡神社にて、参拝した写真を見せて御朱印をいただきました

お忙しい中ありがとうございました

 

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【御朱印】函館市上湯川町 上湯川稲荷神社と境内社石神神社

上湯川稲荷神社(かみゆのかわいなりじんじゃ)は、北海道函館市上湯川町215番地にある神社で旧社格は村社。御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、大山祇神(おおやまつみのかみ)で例祭日は9月12日。

神社は湯の川から南茅部活汲に抜ける主要道道83号函館南茅部線沿いの高台に位置し、裏手には広大な市民の森が広がっています。

上湯川稲荷神社

以下は、北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 明暦2年(1656)の創祀という。明治9年(1876)に村社に列せられ、同44年(1911)4月10日に同村の無格社大山祇神社を合祀した。昭和19年(1944)8月23日、神饌幣帛料供進神社に指定される。

合併により合祀された歴史をもつ御祭神
大山祇神社 大山祇神 明治44年(1911)4月10日合祀
【所在地】
〒042-0914 北海道函館市上湯川町215番地
【例祭日】
9月12日
【祭神】
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
大山祇神(おおやまつみのかみ)
【旧社格】
村社

社号標(平成19年9月吉日建立、平成十八年御鎮座三百伍拾年記念)

 

狛狐一対(平成3年9月吉日建立)

 

右手にお社がありますが、何が祀られているのか聞くのを忘れ…

隣には手水舎

水盤の奉納年は不明

 

ちょうど沢水が流れている地形ですね

石灯籠一対(令和元年9月吉日建立)

 

狛犬一対(昭和19年9月11日建立)

 

 

 

 

境内社:石神神社 御祭神は石長比売命(いわながひめのみこと)、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の両姉妹で父親は大山祇神(おおやまつみのかみ)なのです。

けど、扉を開けるとそこには石の御神体があり陽石(詳しくはググってね)と呼ばれるもので、子宝抜群ですかいな。

馬頭観世音碑

 

戻りますね~

御朱印

授与所があり常駐しているのかは不明ですが、そこでいただきました。

境内の清掃でお忙しい中ありがとうございました。

 

  

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