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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

稚内市声問村更喜苫内 更喜苫内神社

更喜苫内神社(さらきとまないじんじゃ)は、北海道稚内市声問村更喜苫内にある神社で神社本庁包括外の未公認神社です。御祭神は天照大神(あまてらすおおかみ)、三吉大神(みよしのおおかみ) で例祭日は7月31日。

令和8年(2026)4月30日参拝

国道40号から東に進んだ小高い丘の上に神社はあり、旧国道交差点傍に開拓百年記念碑があります。

更喜苫内地区

以下は稚内市史から要約

明治28年(1895)当時は、まだうっそうたる大森林に覆われていたが、新潟県人本田啓太郎・定治が入植。
明治32年(1899)この地方が植民地区画され以来入植者も次第に増加。
明治35年(1902)富山県から沢木某・桜木佐八郎
明治37年(1904)阪根甚十郎・野田義政などに続き、田辺杉太郎・与安重秀・佐藤徳道・上村佐太郎・梅津実らが入地
明治44年(1911)梅津半六・湊与七が入地。三三戸くらいの地域を形成。
明治44年5月に発生した山火事により、二戸を残し家財も含め全部焼失し、さらに本田定治・野田義政・白石信元らが運動し開設した簡易教育所(明治39年(1906))も焼失。
大正2年(1913)本田定治が北海道庁の指令で駅逓を開設。勇知・兜沼(かぶとぬま)・芦川の内陸地帯が開拓されるにつれ、稚内との主要交通路線が整備されて同12年(1923)に閉鎖されるまで続いた。

大正9年(1920)地域で畜産の綿羊が始まり梅津半六がメリノ種雌雄一対と肉用サウスダウン一種を導入する。技術競技会に出場したり優秀純血種の育成で、昭和33年(1958)ころまで全道共進会でも入賞するなど畜産が盛んになった。
大正15年(1926)梅津半六が初めて初生ひな五〇羽を買い入れ、飼育に成功してから徐々に普及した。
昭和5年(1930)には更喜苫内・上勇知・幕別の三地区で養鶏組合を結成したが、バレイショ生産の減少に伴い、飼育する農家も少なくなった。

明治末期に梅津実がホルスタイン雑種三頭、阪根照吉がエアシャー種二頭を導入したのが更喜苫内の酪農の始まりで、大正5年(1916)阪根甚三郎がホルスタイン種を導入、大正14年(1925)梅津半六と工藤伝蔵がエアシャー種を導入、同人らがホルスタイン種二頭を導入したのが地区酪農の先駆けとなった。
昭和28年(1953)から同31年(1956)の冷水害、加えて同37年(1962)の大凶作は、酪農への転換を余儀なくされた。
昭和38年(1963)農村電化事業によりテレビやミルカーの導入。
昭和39年(1964)第一次農業構造改善事業が始まる。
昭和41年(1966)サラキトマナイ川の河川改修、排水路工事が着工。このころから牛舎の増改築が活発化し、酪農の大型・多頭化飼育に拍車がかかっていった。
昭和45年(1970)第二次農業構造改善事業が始まる。畜舎の近代化も進んで、パイプライン・バルククーラーなどは同50年(1975)には全戸に導入、タンクローリーによる牛乳集荷もこのころから始まった。
しかし、昭和54年(1979)から、牛乳の生産制限が始まり、酪農経営は大きな試練を迎えることになった。

平成8年(1996)更喜苫内地区開基一〇〇周年、更喜苫内小学校開校九〇周年を祝う記念式が盛大に挙行された。開基百年記念碑がつくられ、地域の生命と財産を守り続けた三個の鐘が先人の意を託して釣られている。
平成9年(1997)年9月現在の世帯数および人口は、335世帯・136人である。

 

更喜苫内の地名由来はアイヌ語から来ており、山田秀三「北海道の地名」では次のとおり。キ・ト・オマ・ナイ<sarki-to-oma-nay>葭(葦)の・沼・にある・川

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き 未だ未開の地であり何もない。サリキトオマナイの川名が見える

大正12年測図地形図 ポツポツと集落が形成されつつある

更喜苫内神社

以下は北海道神社庁誌 第二章神社本庁包括外神社 三.未公認神社の項から

【由緒】
不明
【所在地】
稚内市サラキトマナイ
【例祭日】
7月31日
【祭神】
天照大神(あまてらすおおかみ)
三吉大神(みよしのおおかみ) 
【旧社格】
なし

開基百年記念碑

ぽつんと離れたところになんかある

小さい手水石

馬頭観世音大菩薩碑(大正十年酉九月十八日)

脇に村内安全と刻まれた馬頭観音(大正三年九月建之)

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