page contents

藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

斜里郡斜里町 斜里神社

斜里神社(しゃりじんじゃ)は、北海道斜里郡斜里町本町44番地2にある神社で旧社格は村社。御祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)で例祭日は8月21日。

斜里駅からほど近い場所の小高いところに神社はあり、街なか神社にしては交通量も少なく静かな場所ですね。

もともとは初代斜里場所請負人三代目村山伝兵衛が、1796(寛政8)年に豊漁を祈願して建てた弁天社が始まりですが、御祭神が天照皇大神の一神に変わったのは、明治元年(1868)3月に明治政府が神社から仏教的な要素を排除しようと「神仏分離令」を出した事からなのかな?と思っています。(他の地域にある運上屋の弁天社は弁天様(弁財天)を市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)に変えて副祭神として祀っている神社が多いです)

斜里町

斜里郡における和人による支配は、1790年(寛政2年) シャリ場所開設(場所請負制度による和人の漁場経営)から始まり、村山伝兵衛が運上屋(交易所)の支配人となりました。

1635年(寛永12年):松前藩家臣村上掃部左衛門広儀が島内を巡行し、斜里に来る。
1790年(寛政2年):村山伝兵衛が斜里場所運上屋差配人となる。
1796年(寛政8年):斜里神社創建。
1807年(文化4年):蝦夷地全島が江戸幕府直轄となる。「津軽藩士殉難事件」発生。
1808年(文化5年):柏屋喜兵衛(後の藤野)他が共同で宗谷・斜里場所の請負となる。
1815年(文化12年):宗谷・斜里場所が藤野喜兵衛の単独請負となる。
1869年(明治2年):蝦夷地を北海道と改め、11国86郡を定める。北見国斜里郡となる。
1872年(明治5年):斜里郡が根室支庁管轄となる。斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5ヵ村誕生。
1875年(明治8年):村名が漢字の斜里村・朱円村(しゅまとかり)、遠音別村(おんねべつ)、止別村(やむべつ)、蒼瑁村(あおしまい)となる。
1878年(明治11年):斜里村役場設置。
1879年(明治12年):斜里村外四ヵ村戸長役場設置。
1885年(明治18年):根室と斜里を結ぶ越川山道を開削。
1889年(明治22年):知床硫黄山噴火(1890年にも噴火)。
1894年(明治27年):越川に駅逓所開設。
1913年(大正2年):三井農場が北海道外の府県から移民を入れ、未開地3,000町歩の開墾に着手。
1915年(大正4年):二級町村制施行。斜里、朱円、遠音別、止別、蒼瑁の5ヵ村を合併して斜里村と改称。
1919年(大正8年):小清水村(現在の小清水町)分村。
1925年(大正14年):釧網線(現在の釧網本線)網走駅—斜里駅間開通。
1929年(昭和4年):釧網線斜里駅—札鶴駅間開通(1931年釧網線全線開通)。
1932年(昭和7年):殖民軌道斜里—チプドマリ間開通。
1939年(昭和14年):町制施行し、斜里町となる。
1943年(昭和18年):上斜里村(現在の清里町)分村。
1957年(昭和32年):国鉄根北線斜里駅—越川駅間開通(1970年廃止)。

シャリ運上屋(会所)跡

 以下は、斜里町立知床博物館HP内の自然と歴史/文化財/シャリ運上屋(会所)跡から

シャリ運上屋の創設は1790(寛政2)年以降と推定され、その頃当地方を巡視した幕吏、谷口青山の絵図(1798(寛政10)年作)にも当時の運上屋と弁天社の風景が描かれている。
運上屋は初め和人とアイヌ人との交易所として発足したが、のちに大規模な漁場経営や場所内の行政事務をも取扱うようになった。
1807(文化4)年幕府の蝦夷地直轄にともない、運上屋の名称は会所と改められたが、このとき北方探検家として有名な最上徳内がシャリ会所詰を命ぜられ、当地に駐屯中の津軽藩兵の指揮していた。
1869(明治2)年、場所請負制度の廃止と共に運上屋も廃止されたが、その建物は旧斜里場所請負人藤野家によって管理されていた。現在はその跡形もないが、当時の場所を推定して史跡としたものである。
1903(明治36)年の斜里市街図によると、運上屋跡のこのあたりに斜里戸長役場、警察分署、駅逓などがあり南側の丘には弁天社があったことが記録されている。

津軽藩士シャリ陣屋跡

 以下は、斜里町立知床博物館HP内の自然と歴史/文化財/津軽藩士シャリ陣屋跡から

1807(文化4)年、幕府より斜里地方の沿岸防衛を命ぜられた津軽藩は7月から藩士100名が駐屯して沿岸警備にあたった。このとき斜里前浜に建てられた陣屋3棟(3間x12間2棟、3間x10間1棟)の場所を「松前詰合日記」から推定し史跡としたものである。警備での越冬期間中、浮腫病の蔓延により藩士は次々と死亡した。翌年故郷の津軽へ帰還した藩士はわずかに17名にすぎず、現在「津軽藩士殉難事件」として知られている。

 地名由来はアイヌ語で、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では以下の通り。
斜里 サ< sar>ヨシの生えた湿原 もとこの辺一帯をさす地名であった。日高にも有名なsar(沙流)があるので、区別するため沙流をマッネ・サ(女性 のサ)、斜里をピンネ・サ(男性のサ)と言うこともある。斜里川はサ・ウン・ペッ( sar-un-petヨシ原・にある・川)。{河口付近は両岸ともヨシが密生しているという。} 知里真志保地名解

大正13年測図、昭和19年部分修正地形図

斜里神社

以下は、北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 シャリ場所請負人、村山伝兵衛が寛政8年8月21日、現在地に御社殿を奉斎したことを以て、斜里神社の御創祀とする。天保5年、又十藤野配下の三上伴七、住吉丸清六より石灯篭が奉納されるなど、大漁・海上安全の守護神として永く尊崇をあつめるなか、斜里開拓の進展とともに地域一円の守護社とされてきた。昭和2年11月12日、村社に列せられる。昭和11年、社殿を海向きより町向きにして御遷座。昭和21年宗教法人となる。
【所在地】
〒099-4113 斜里郡斜里町本町44番地2
【例祭日】
8月21日
【祭神】
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
【旧社格】
村社

旧斜里神社拝殿

斜里町立知床博物館には弁天社の拝殿が保存されております。

以下は、斜里町立知床博物館HP内の自然と歴史/文化財/旧斜里神社拝殿から

初代斜里場所請負人三代目村山伝兵衛が1796(寛政8)年に豊漁を祈願して寄進した社祠。江戸時代後期の斜里を描いた谷口青山や目賀田帯刀の絵図、松浦武四郎などの紀行文には弁天社が記録されている。斜里町最古の建造物で構造は木造の流造り、高さ118 cm、巾65.5 cm、奥行73.3 cm。知床博物館にて常設展示されている。

 

社号標(昭和38年11月吉日建立)

書家の中川清風謹書だが、この字のどこが良いのかさっぱりわからない。

 

玉砂利の手水舎(奉納年不明)

 

石灯籠一対(建立年不明)

 

1段毎の間隔があるので歩きやすいです

石灯籠一対(昭和6年8月建立)

 

ちょっと殺風景な感じ

雷が鳴り始めて暗くなってきました(急がないとヤバス)

狛犬一対(昭和12年11月3日建立)

 

 

 

拝殿前の古い石灯籠一対

もしやこれは・・・

 

願主三上伴七・住吉丸清六 天保五甲午(きのえうま)正月吉日とあり、天保5年は1834年のことです。

三上伴七はシャリ場所支配人で、住吉丸清六はシャリ場所を請け負っていた藤野喜兵衛の持ち船「住吉丸」の船頭である畑藤清六郎右衛門。

参道を戻って鳥居右手に忠魂碑(昭和39年7月15日建立)

 

 

300柱(日露戦争6柱・満州事変3柱・支那事変35柱・太平洋戦争256柱)の英霊が祀られています

隣には境内社:妙見神社

 

御朱印

残念ながら、御朱印はしない事で有名な神社なのでありません。

www.moiwa-orosi.com