page contents

藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

苫前郡苫前町古丹別 古丹別神社

古丹別神社(こたんべつじんじゃ)は、北海道苫前郡苫前町字古丹別241番地にある神社で旧社格はなし。御祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)、保食神(うけもちのかみ)で例祭日は7月12日。

古丹別川河口から5km上流にある古丹別集落の東端に神社はあり、神社背後は急傾斜地となっています。神社境内は清掃が行き届いており気持ちの良い神社さんですね。

古丹別地区

現在の古丹別集落は昭和6年に羽幌線古丹別駅が開業してから市街化が進んだ場所で、それ以前の古丹別といえば浜の方に人家が点在していたあたりをいいます。

古丹別は幕府直轄時代にトママイを領地とした庄内藩が農業移民の入植によって水稲栽培を試みましたが、成果を上げることはできませんでした。(文政5年(1822年)に岩手県盛岡市で生まれ、幕末の安政年間に古丹別川尻で農耕を始めた藤田翁は明治14年(1881年)、水田を開き水稲栽培を試みます。何度も失敗を繰り返す中、その苦労が報われたのが明治17年(1884年)。収量はわずかでしたが、開拓者とともに「白い飯」を腹いっぱい食べ、喜びをかみしめたと伝えられています。開拓者藤田万助翁の功績をたたえ苫前町香川の古丹別川のそばに「水田発祥之地」と記された石碑が建てられています。)

1886(明治19)年に北海道庁が開設されると、急速に内陸部の開拓が進められていく。1895(明治28)年には、古丹別川流域の古丹別原野が入植地に選定され、翌年に多くの入植者がやってきた。碁盤の目になった区画ごとに国から土地の貸付け(国有未開地貸付)を受け、開墾すれば自分の土地にできるからである。古丹別原野には、2年後の明治30年になると200戸を超える農家が入植していた。貧しい小作農が多く、自分の土地を持てるという夢を抱いた人々が郷里を捨てて北海道へ渡ったのである。

その後も入植者は増え続け、1905(明治38)年さらに原野の奥深く古丹別川の支流である三毛別(さんけべつ)川流域にあった御料地(皇室所属の領地)の、農地としての貸付けが始まる。三毛別川の支流ルベシュペナイ川(当時は御料川とも呼ばれた)流域の谷で、今は三渓(さんけい)という地名の「苫前村大字力昼(りきびる)村三毛別御料農地六号新区画開拓部落六線沢」。あの歴史的な惨劇の舞台と場所です(事件についてはあまりにも有名なので割愛)。

 地名由来はアイヌ語で、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では、
 コタンペッ<kotan-pet> 村・川 松浦氏は戊午日誌で「コタンヘツ本名コタンウシヘツ。川端の上に人家2軒あり。」と書いた。}山田秀三地名考
とあります。

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き

大正11年測図、昭和8年鉄道補入地形図

古丹別神社

以下は北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 明治29年、三重県から移住した伊曽島団体25戸と単独で10戸(単独組という)の開拓入殖があった。同年9月単独組の手によって天照大神が通称上牧山に祀られた。伊曽島団体も郷里の八起神社の祭神と稲荷神社を伊藤軍治郎の土地に奉祀した。大正2年両社は合併され、社殿も旧競馬場付近、藤田重太郎裏地、営林署横地へと移転を重ね現在地に落ち着いた。人口の増加と共に神職による祭式を求める者も増え、昭和43年宗教法人の手続きを済ませた。
【所在地】
〒078-3621 苫前郡苫前町字古丹別241番地
【例祭日】
7月12日
【祭神】
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
保食神(うけもちのかみ)
【旧社格】
なし

境内の右手奥には古丹別開基百年記念碑と頌徳碑があります

 

一ノ鳥居を過ぎ参道左手に頌徳碑(昭和40年7月12日建立)古丹別神社設立に貢献した方々を讃えて。

 

隣に手水舎(水盤の奉納年は不明、上屋は平成21年奉納?)

 

参道左右に並ぶ石灯篭は昭和54年7月建立

二ノ鳥居 

狛犬一対(昭和53年5月1日建立)

 

 

脚の間に布袋様?が

狛犬一対(昭和12年9月15日建立)

 

 

 

きれいに建て直した社殿

 

振り返ると参道からまっすぐ伸びる道路が気持ち良いですね。

www.moiwa-orosi.com