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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

【御朱印】留萌市 留萌神社 ~文政6年(1823)8月奉納の石灯籠~

留萌神社(るもいじんじゃ)は、北海道留萌市宮園町4丁目16番地にある神社で旧社格は縣社。御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で例祭日は7月17日。

 現在の神社は見晴公園のそばにある高台上で、隣には浄土宗法國寺があります。元々はルルモッペ場所支配人であった栖原彦右衛門が天明6年(1786)に海上安全・漁業祈願のため安芸厳島神社から御分霊を勧請して創建したのが始まりで、当時は留萌川河口にあったと見られ、文化三年(一八〇六)の「遠山日記」に 運上屋北向座敷通り皆北向 キニ建タリ。蔵二長屋アリ。辯天社ハ栖原屋ノ守神川向二在リ。華表(とりい)、石燈籠アリ。稲荷社平山原ニアリ。 普請作事見事也。 また、弘化三年(一八四六)の「再航蝦夷日誌」には 辯天社川向二立タリ、華表 (とりい)、石燈籠有、稲荷社同上ナル平山原二建タリ。 普請非常見事也。とある。 当時は見事な社がルルモッペ場所を見守っていたことであろう事が書かれている。

その後水害などで移転を余儀なくされ明治31年に留萌通りに遷座した後、大正14年に現境内に遷座。昭和15年に縣社となり、厳島神社から現社名である留萌神社に変更しました。

留萌市

留萌は北海道北部の日本海沿岸にある都市で、かつては鰊漁、炭鉱などで賑わった街ですが、現在はそれも無くなり1960年代まで人口4万人以上いたのが現在は減少の一途をたどり令和2年国勢調査では人口2万人までになりました。

江戸初期、松前藩はルルモッペ場所を設置し、1751年(宝暦1)村山伝兵衛が場所請負人となり,以後ニシン漁の一中心として発展した。
1786年(天明6)村山伝兵衛に変わり栖原彦右衛門が場所請負人となる。
1867年(慶応3)ルルモッペ場所が箱館奉行直轄となる。
1877年(明治10)戸長役場を元町(川北)に設置、留萌村となる。
1896年(明治29)鳥取県の団体入植で本格的な農業開拓が始まり
1899年(明治32)大和田炭鉱開業
1908年(明治41)町制施行し留萌町となる
1910年(明治43)官設鉄道留萠線として、深川駅 - 留萠駅間(31.1 M≒50.1 km)が開業。
1919年(大正8) 北炭豊平炭鉱開業。
1921年(大正10)留萌 - 増毛間に鉄道開通。
1928年(昭和3) 留萌鉄道桟橋会社が設立され留萌築港線開業
1929年(昭和4) 留萌鉄道が恵比島駅から太刀別駅の留萌炭鉱線を開業し浅野、昭和炭鉱から留萌港までの石炭輸送を本格的に開始
1931年(昭和6) 留萌港が完成、1936年国際貿易港として開港、留萌炭田などの石炭や木材の積み出し港として発展し、1952年重要港湾に指定された。
1940年(昭和15)古丹別森林鉄道古丹別線開業、古丹別の木材の羽幌線、留萌築港線経由の留萌港への積み出しが始まる。同年 - 羽幌森林鉄道羽幌奥羽幌間開業、羽幌線、築港線経由での留萌港への木材積出しが急増
1941年(昭和16)天塩炭鉱鉄道留萌-達布間が開業、天塩炭田の石炭の留萌港から本格的な積み出しが始まる。同年 - 羽幌炭鉱鉄道築別炭砿線開業、築別炭砿からの羽幌線、築港線経由の留萌港からの石炭の本格的な積み出しが始まり、留萌港周辺に運送会社、商社、炭鉱会社の支店が集まる。
1947年(昭和22)市制施行し留萌市となる
1959年(昭和34)大和田炭鉱閉山
1961年(昭和36)古丹別森林鉄道、輸入材の急増により廃止
1963年(昭和38)羽幌森林鉄道廃止
1967年(昭和42)炭鉱の閉山により貨物輸送が停止した天塩炭鉱鉄道が廃止
1969年(昭和44)留萌鉄道営業休止
1970年(昭和45)羽幌炭鉱鉄道廃止、留萌駅の乗降客が急減、留萌港の取り扱いも急減し、留萌市から企業の撤退が相次ぐ。同年 - 豊平炭鉱閉山
1987年(昭和62)国鉄羽幌線廃止
2016年(平成28)留萌駅 - 増毛駅間廃止
2023年(令和5) 石狩沼田駅 - 留萌駅間廃止
1990年代までは第一次産業、第二次産業の就労者が多い街でしたが、相次ぐ炭鉱の閉山、木材加工業の廃業、漁業の衰退により、2000年(平成12年)の国勢調査による従事者数の割合は公務員を含む第三次産業だけで全従事者数の7割以上を占め圧倒的に高く、第二次産業が3割。第1次産業は3%余りを占めるに過ぎない、公務員の給与と公共工事に依存する典型的な官依存の都市となった。

 地名由来はアイヌ語で諸説あり、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では、
ルルモオッペ <rur-mo-ot-pe>潮の静に入る所〈潮汐が・静か・でいつもある・もの(川)〉[満潮の時、この川へ潮が入るため。]…上原熊次郎地名考[山田秀三補足説明]
ルルモペ <rur-mo-pe> 静潮水{海の潮・静かな・もの}この川は潮汐溯ること数里におよぶため水流が遅かったため。{文法的にはmoの後には-pが付くべき。}…永田方正地名解
ルルパモイ <rur-pa-moy> 海・の上手・の湾…北海道駅名の起源

とあり、同地名リストでは『上原解が最も自然な形と思われる。』とコメントしています。

「東西蝦夷山川地理取調図」 松浦武四郎 安政六年 留萌川河口右岸に運上屋が見える

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き

大正8年測図、昭和6年鉄道補入地形図

留萌神社

以下は北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 天明6年(1786)当地支配人栖原彦右衛門が、当市58番地に広島県安芸の厳島神社の御分霊を奉斎したのが創祀と伝わる。万延元年(1860)留萌郡は床内藩の領地となり、明治3年山口藩の支配地となったが、営繕・祭祀の諸費は一切藩費をもって支弁されていたと伝えられている。明治9年、村社厳島神社と公称し、明治29年郷社となる。初めの境内は海岸に近く、その上低地であったので、海が荒れたり留萌川が氾濫出水の際は社内に浸水があったため、明治31年当市留萌通りに遷座。同39年には神饌幣帛料供進神社に指定された。大正14年に現境内に遷座し、昭和15年県社となり、現社名に変更した。昭和21年に宗教法人となった。
【所在地】
〒077-0032 留萌市宮園町4丁目16番地
電話 0164-42-0611 FAX 0164-42-8777
【例祭日】
7月17日
【祭神】
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
【旧社格】
縣社

社号標 縣社 留萌神社

 

一ノ鳥居

裏左:敬神報國 裏右:皇紀二千六百年

 

鳥居の手前に古そうな石灯籠一対が目立たない位置にあり、よく見てみると驚きの石灯籠でした。

 

 

栖原店とありルルモッペ場所支配人であった栖原家のこと

文政六癸未(みずのと ひつじ)年八月日は1823年8月のこと

大きな石灯籠一対(平成23年7月吉祥日建立)

 

二ノ鳥居

左手に手水舎(かつては屋根があった模様)

水盤は昭和16年7月吉日奉納

 

狛犬一対(昭和5年10月建立)

 

 

三ノ鳥居

鳥居の両脇に石灯籠一対(建立年判読できず)

 

 

 

扁額の揮毫は海軍大臣 米内光政

 

神社右側に包丁塚(昭和58年9月吉日建立)

 

その隣に平和之塔(平和都市宣言碑)(昭和43年8月留萌市遺族會建立)

 

更に右手に立派な忠魂碑

 

留萌戦没者記銘碑には多くの戦没者が刻まれています(平成22年8月20日留萌市遺族会建立)

 

忠魂碑(大正12年建立)

 

社殿左手にひっそりと神馬像が収められていました

御朱印

社務所にて直書きしていただけました

お忙しい中ありがとうございました。

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