page contents

藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

【御朱印】根室市琴平町 根室金刀比羅神社 ~高田屋嘉兵衛による創建の神社~

正式名称は金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)だが、アチラコチラにあることから便宜上、地名を付けた形で以降呼ぶこととします。 

根室金刀比羅神社(ねむろことひらじんじゃ)は、北海道根室市琴平町1丁目4番地にある神社で旧社格は縣社。御祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)で例祭日は8月10日。

 根室港を望む高台の上に神社はあり、下の鳥居から長い参道を登っていくと道中にいろいろな石碑や弁天島の市杵島神社を見ることが出来る展望施設があり、飽きること無く上まで進んでいけます。

根室市

 寛政2年(1790年)に、松前藩の運上屋がノカマップから根室に移ったのが始まりで、移転の理由は前年に起こったアイヌの蜂起であるクナシリ・メナシの戦いの首謀者らがこの地で処刑されアイヌが嫌ったと云われている。

この事件の後、寛政11年(1799年)に松前藩の支配による東蝦夷地は天領(幕府直轄地)になり運上屋は会所と改められます。
文政4年(1821年)に松前藩領に戻った後、安政2年(1855年)に再び天領となり仙台藩の出張陣屋が築かれました。
明治2年(1869年)8月、北海道11ヶ国86郡が制定されて根室国に含まれて花咲郡と根室郡ができ、開拓使の根室出張所が置かれました。明治初期の根室は北海道東部における最大の町で水産業が発展していきます。
1931年(昭和6年)8月24日、リンドバーグ夫妻が北太平洋を飛行機で横断し根室に到着した。
1936年(昭和11年)9月28日、昭和天皇の市内巡幸。
1945年(昭和20年)7月14日~15日の北海道空襲では根室市街地(焼失倒壊家屋2,457戸、死者369人)の被害を受けました。
1957年(昭和32年)8月1日、根室郡根室町・和田村が新設合併し、根室市が発足。

昭和20年7月の空襲後の根室市街地

 根室の地名由来はアイヌ語から来ていますが、大地名に多い諸説あり語源がわからない問題がここにもあります。山田秀三「北海道の地名」では

根室 ねむろ、ねもろ
 元来は今の根室市街の辺の地名。後に大地名となり、旧郡名、国名となり、明治初年北海道三県時代は根室県が置かれた。和人商船が根室港まで進出できるようになったのは新しい時代であったが、漁獲が豊かなこともあり、たちまちにぎやかな処となった。昔は「ねもろ」と呼ばれていたが、後に「室」の字に引きつけられて「ねむろ」となった。語義は類例がなく全く見当がつかないので、従来の諸説を列記するに止めたい。
 上原能次郎地名考は「ネモロ。夷語ニイモヲロの略語なるべし。則静にて樹木の有ると訳す。亦説にニノオロなるといふ事あり。即ち雲丹(うに、ニノ)の在ると訳す。此嶋(弁天島)に雲丹のあるゆへ字になすともいふ」。
 松浦氏知床日誌は「ニムイにして、往古は此処樹木多く有りしが故号しと。今訛りてネモロと云よし」と書いた。ニ・モイ(木・湾)とした説。また同氏国名建議書で は「ネモロ。訳て木箕之義。其海底に神代木多く有よし。ムイは箕の事、箕之形に成たる湾の儀」と書いた。ニ・ムイ(木・箕)と解した説。
 永田地名解は「元名ニ・ム・オロ。樹木繁欝する処の義。松前記欄外に桜井家譜を引て
云。慶安元年東夷樹林(ニムオロ),数無(シュム)と戦ひ、夷多く死すと。アイヌの口碑と相同じ」と書いた。彼のニムオロ説はアイヌからの聞き書きだったろうか。
 北海道駅名の起源昭和29年版は「根室駅。ネムロ・ペッ即ちメム・オロ・ベッ(湧壺・そこにある・川)から転訛したものと思われる」と書き、またその巻末国郡名の 由来の処では「根室国。ニ・ム・オロ(寄木の詰まるところ)の転訛である」と書いた。

とあり、やっぱり諸説ありすぎ問題。

「東西蝦夷山川地理取調図」 ネモロとありますね

大正11年測図、昭和11年発行地形図

根室金刀比羅神社

以下は、北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 文化3年 高田屋嘉兵衛が漁場請負の際創祀した。明治10年、住民一同の請願を以て、公認の神社として開拓使庁の認可を受け、明治14年鎮座地を現在地に移し、社殿造営、境内整備をなし社格を郷社に列せられ、明治21年、神輿献備し、神幸祭を執行する。明治39年に社殿を改築し、大正8年社格を県社に列せられる。昭和11年昭和天皇の行幸を仰ぎ、玉串料を拝受する。昭和17年、社殿を造営、昭和21年、北方領土の島々の神社御神体を仮鎮座する。昭和28年、宗教法人金刀比羅神社として認証を受く。昭和52年社務所新築、昭和61年創祀180年記念祭を執行して「高田屋嘉兵衛」銅像を建立する。
 平成18年創祀200年記念祭を執行して、社務所新築。「神輿殿・お祭り資料館」を併設する。
【所在地】
〒087-0055 根室市琴平町1丁目4番地
【例祭日】
8月10日
【祭神】
大物主神(おおものぬしのかみ)
事代主神(ことしろぬしのかみ)
倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
【旧社格】
縣社
【社宝等】
柿本人麻呂像
石灯籠(安政2年)
【御朱印】
■御朱印受付 : 書置き紙にて対応の時有り。公式ウェブサイト参照。
■受付時間  : 08:30~12:00、13:00~17:00
■兼務社の御朱印:根室出雲神社については根室出雲神社社務所にて書き置きのみ用意しております。

一ノ鳥居

社号標

長い参道

 

狛犬一対(大正15年12月建立)

 

 

海上遭難者之碑

昭和29年5月に道東地方を襲った暴風雨により、漁船38艘遭難、犠牲者323名に及ぶ大災害となりました。翌年、海上遭難者の霊を弔うべく、町民賛助のもと建立された碑です。

 

戦友会碑(義勇奉公の碑)

日清・日露の両戦役に兵士として出征した根室出身の人達が従軍を記念して昭和3年に建立しました。
「義勇奉公」は時の第七師団長渡辺錠太郎が題し、碑文は三浦子覚、書は前田浩によるものです。
碑の裏面には、従軍軍人の名前が刻まれており、中でも故・森田政次郎氏は、昭和45年に亡くなるまで「私はこの仲間の生き残り」と言って、良く碑の清掃をされておりました。

 

安政二年の石灯篭

金刀比羅神社境内にある石造建造物の中で最も古いのが、この安政2(1855)年の石灯篭一対である。中台に「安政ニ乙卯三月建立」、竿(下からニ番目)に「柏屋船頭中子モロ支配人番人中」と刻まれており、藤野家(ふじのけ)の支配人等が寄進。もとは、松ヶ枝町付近にあったが明治14年の神社の移転とともに現在地に移設。

 

石灯籠と狛犬と二ノ鳥居

石灯籠一対(昭和45年元旦建立)

 

 

狛犬一対(建立年不明)

  

 

二ノ鳥居

青銅灯籠一対(昭和52年7月吉日建立)

 

 

行幸記念碑

昭和11年9月28日、天皇陛下北海道行幸の砌、根室に行幸遊ばされました。
当神社に対し幣帛料を賜り、御親殿後額殿に設けられた展望台から港を御遊覧遊ばされました。
この行幸を記念し、時の北海道長官池田清が揮毫し、額殿前に碑を建立致しました。

 

何かの碑その1

 

何かの碑その2

手水舎(水盤は昭和35年8月吉日奉納)

 

何だかわかりません

弁天島を見ることが出来る展望台

 

御神門と石灯籠一対(建立年不明)

 

 

ブロンズの神馬像

お祭りのときの授与所

ブロンズ狛犬一対(昭和51年8月建立、御創祀170年記念)

 

 

  

 

西門外

高田屋嘉兵衛銅像

 

千島「戦没者・物故者」慰霊之標(平成10年9月第39回北海道神社庁神社関係者大会建立)

 

西門の手水舎(手水石は昭和63年元旦奉納)

 

 

西門

東門外

東門鳥居

社務所と駐車場

東門手水舎

東門

御朱印

立派な社務所で直書きをお願いしている間、記念館の見物を勧められます。

お忙しい中ありがとうございました。

www.moiwa-orosi.com