page contents

藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

【御朱印】久遠郡せたな町北檜山区 會津白虎隊玉川遥拝所

玉川神社の斜面中段の忠魂碑がある更に奥に、「會津白虎隊玉川遥拝所」があり左隣には「西南の役三十三観音」があります。

會津白虎隊玉川遥拝所

以下はせたな町HPから

【由緒】
 会津藩士であった丹羽五郎は、飯盛山に散った少年隊士19名の霊を郷里の会津若松の地にあるが如く、祖先を祀る敬心から、大正13年(1924)7月、この地に白虎隊遥拝所を建立した。
なお隊士のうち、有賀織之助と永瀬勇二は丹羽五郎の従兄弟にあたる。

 現在地の遥拝所は昭和46年(1971)11月20日、丹羽開基80周年記念事業として修復工事したものである。

f:id:ksn-bee:20190505004912j:plain

f:id:ksn-bee:20190505004923j:plain

f:id:ksn-bee:20190505004933j:plain

西南の役三十三観音

以下はせたな町HPから

【由緒】
 明治10年(1877)3月、東京高輪警察署詰であった丹羽五郎は警視庁巡査100名と共に西南の役に出征した。

 参謀山形有朋命名の「警視抜刀隊」は警視隊の中から特に厳選された会津藩士族の多い精鋭部隊であった。
 田原坂の戦いは、日本国内戦史でも例を見ない悲惨な戦いで、五郎率いる小隊100名のうち33名が戦死、50名が負傷するといった大きな犠牲を余儀なくされた。
 このことから五郎は、西南の役で戦死した部下の忠魂を慰謝するため、三十三観音にちなみ部下名を刻し、後世の守護を希って1番から33番までの墓標を建立した。

 大正3年(1914)丹羽村創立35年祭記念事業として建立。昭和30年代に現在地の玉川神社階段両側に移設した。

f:id:ksn-bee:20190505004848j:plain

f:id:ksn-bee:20190505004838j:plain

f:id:ksn-bee:20190505004901j:plain

御朱印

なんと、會津白虎隊玉川遥拝所も御朱印があって真駒内神社で受けることが出来ます。

参拝は4/20だけど送られてきたのは気を利かせて令和元年5月1日としてくれました。

ありがとうございました。

f:id:ksn-bee:20190505011555j:plain

www.moiwa-orosi.com

www.moiwa-orosi.com