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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

【御朱印】札幌市中央区 札幌護國神社

札幌護國神社は札幌市中央区南15条西5丁目1番地にある神社で御祭神は護国の神霊25,550柱。例祭日は7月6日。明治12年に創建。

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明治10年の西南の役で戦病没した屯田兵の御霊や各戦役で戦没された御霊などを祀っています。

札幌護國神社 - 北海道神社庁のホームページ

現在、御祭神は25,550柱(平成29年)あるそうです。

境内には各戦没者慰霊碑がたくさんありますが、冬季は雪に埋まっており全部見て回れないのでお薦めできません。

また、境内社として多賀神社(多賀殿)があります。

御朱印は社務所で頂けますが、とても親切な対応でして石狩管内の神社一覧の小冊子頂きました。初穂料は300円。

御朱印帳(北海道地図の絵)もここで売っているみたいです。

樹齢900年のイチイ(一位)が保存樹として境内にあります。

【2019.02.11追記】:境内にある彰徳苑の参拝スタンプも平成30年10月ごろから始めたようで初穂料300円?

左:大正5年測図地形図 右:現在

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2019.06.24追記 再度参拝してきました

前回参拝は1年前の2月なので、全てが白い雪に埋まっていた事もあり、再度参拝しに来ました。近いけどなかなかタイミングと言うか、忘れてたという方があっています。

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手水舎 水盤は大きな自然石をくり抜いたもので、屋根も立派ですね。ただし手水はありません。

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石灯籠

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一ノ鳥居

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由緒書は小さいですね

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イチイの木は推定樹齢900年となっています

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寝牛石(ねうしいし)

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対面には名も無き石

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さざれ石

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天皇皇后両陛下御参拝記念碑(昭和48年6月建立)

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大きく荒々しい作りの狛犬(昭和9年7月建立)

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立派な御神門

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裏参道の鳥居

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裏参道の手水舎 こちらからアクセスする方が多いので水盤にはセンサー式の手水が流れています。

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札幌護國神社 彰徳苑(しょうとくえん)

彰徳苑は札幌護國神社境内にあり、慰霊碑群が祀られている一帯です。 昭和60年6月7日、三笠宮崇仁親王殿下が札幌護國神社の石碑を御巡拝された際、非公式に命名したのを賜りました。

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海軍予備学生の碑(平成5年5月建立) 第13期海軍飛行予備学生、在道有志一同が入隊50周年を記念し、亡き戦友を偲んで建立したもの。

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北鎮砲兵発祥の地記念碑(昭和60年6月建立)と旭川山砲兵第七聯隊営門哨舎

野砲兵第7聯隊の前身である独立野戦砲兵大隊は明治29年12月に札幌月寒の地で創設され、その後明治32年に旭川に第7師団が創設されると同大隊も旭川に移転し、明治34年には4個大隊に増強され野砲兵第7聯隊として編成されました。連隊は師団とともに日露戦役、シベリア出兵、満州事変、支那事変、ノモンハン事件などを戦い抜き、太平洋戦争では主力は道東地区防衛、1個大隊は北千島に派遣し本土防衛作戦「決号作戦」に備えていましたが終戦により野砲兵第7聯隊の長い歴史も終わりました。

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樺太大平炭鉱病院殉職看護婦慰霊碑(平成4年7月建立) 昭和20年8月、樺太に突如ソ連軍が侵攻し住民はすでに避難していたが、炭鉱病院には8人の重症患者を守って婦長以下23名の看護婦がとどまっていました。やがてソ連軍が上陸を始めたことを知り避難を始めますが、ソ連軍に囲まれ進むことも戻ることも出来なくなった一行は、死を覚悟しハルニレの大木のある小高い丘で自決しました。生存者は17名、死亡は婦長、副婦長、10代~20代の看護婦4名の計6名でした。

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歩兵第二十六聯隊軍旗方焼之碑(昭和61年9月建立) 旭川歩兵第26聯隊は明治32年11月に札幌月寒の地で創立され、明治32年旭川第7師団創設に伴い月寒より移転。明治37年の日露戦争では乃木希典大将の第三軍予備隊となり203高地戦に参加し連隊長以下700余名が戦死し生存わずか6名という苦難を受けます。大正7年にはシベリア出兵、昭和14年5月のノモンハン事件ではハルハ河右岸陣地にてソ連軍と交戦し、大隊長をはじめ連隊の約7割を失いながらも3ヶ月余りの戦闘に耐え活躍しました。昭和19年北千島に進駐後、道東方面防衛のため帯広に移駐、昭和20年8月ソ連軍侵攻の報あり急遽札幌月寒に移駐しそこで終戦を迎え、札幌月寒神社境内の林にて軍旗を奉焼し聯隊の歴史に幕を閉じました。

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札幌招魂社碑(昭和9年7月建立) 札幌招魂社とは明治12年創建時の札幌護國神社の呼び名であり昭和9年建立の社号標です。昭和14年に札幌護國神社と改称されました。

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頌徳碑(大正14年旭ヶ丘に建立、昭和35年移設) 札幌在郷軍人会長松本騰四郎大佐の功績を評して建立されたが、現在は他に功績のあった方々も合祀し総数は111柱である。

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まだまだ奥には石碑がいっぱい並んでいます。

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尼港殉難碑(昭和3年10月建立) ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザン部隊4300名(ロシア人3,000名、朝鮮人1,000名、中国人300名)による大規模な住民虐殺事件。 老若男女の別なく数千人の市民を虐殺し、殺された住人は総人口のおよそ半分、6,000名を超えるともいわれ日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされました。 自体を重く見た軍部は、救援隊派遣を決定し第7師団から歩兵1個大隊基幹の多門支隊と、その後札幌歩兵第25聯隊を派遣しますが到着したときには既に遺体が散乱する焦土となっていました。

この事件の慰霊碑は札幌護国神社の他、小樽市の手宮公園に尼港殉難者納骨堂と慰霊碑、また天草市五和町手野、水戸市堀原にも殉難碑がある。 

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アッツ島玉砕雄魂之碑(昭和43年7月建立) 1942年(昭和17年)6月上旬のミッドウェー作戦における支作戦として行われたアッツ島攻略作戦により、キスカ島とともに日本軍の支配下に置かれますが、米軍の反攻作戦が本格化した昭和18年5月12日にアメリカ軍約11,000名がアッツ島に上陸、対する日本軍守備隊は山崎保代陸軍大佐以下2,665名にすぎず、5月29日午後9時10分アッツ島から隣のキスカ島にある北海守備隊司令官宛に最後の電文が届きます。「従来ノ懇情ヲ深謝スルト共ニ閣下ノ健闘ヲ祈念ス」残存130名の将兵は午後10時30分山崎大佐を先頭に暗夜最後の突撃を敢行し全員玉砕したのであった。

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ノモンハン英魂之碑(昭和42年建立) 昭和14年のノモンハン事件で甚大な損害を受けながら激闘した郷里の歩兵第26聯隊と歩兵第28聯隊の将兵及び第7師団の将兵を慰霊するために建立されました。

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屯田兵招魂之碑(明治11年2月建立)石灯籠(明治25年8月建立) 明治10年(1877)の西南戦争に従軍した屯田歩兵第一大隊(琴似・山鼻屯田兵)戦没者の偉勲を讃え、明治11年に両兵村によって建立されました。碑の裏にはこの戦いで倒れた三十七名の屯田兵氏の名前が記されています。

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忠魂碑(明治40年建立)石灯籠(大正2年5月建立) 明治37年から39年まで続いた日露戦争に従軍した第7師団歩兵第25聯隊戦没将兵の偉勲を讃え地元の在郷軍人会が建立したものです。日露戦役で第7師団は乃木希典の第三軍に編入され、二◯三高地において第7師団は全兵力を投入し壊滅的損害を受けながらもこれを占領し、日露戦争におけるターニングポイントとなりました。碑の表の題字は乃木希典大将の揮毫です。

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山鼻神社碑 山鼻神社は山鼻屯田兵の守護神として明治23年5月に南22条西13丁目に建立され、昭和46年5月に護国神社多賀殿に合祀されました。碑の裏手には耳早立雄之神、大山祇大神、天満宮大神の三神を祀っています。

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メレヨン島戦没者慰霊碑(昭和46年建立) メレヨン島は中部太平洋西カロリン諸島にある島で、昭和19年初頭から始まった米軍の反攻作戦により陸軍は守備隊の増強を行ないますが、相次ぐ空襲により施設の殆どは損傷する被害を受け、昭和19年4月になると戦線はマリアナ、サイパン、ペリリューと推移し、戦略的価値を失った同島は敵味方双方から見捨てられる状態になりました。孤立したこの島に補給は届かず現地部隊は自給自足に追い込まれ、兵力の過半数が飢餓と疾病のため没し、同島陸海軍総兵力6426名の内、帰還後の死没者も含めると実に約5千名が亡くなり、生還者の内約半数の700名も疾病及び体力の回復叶わずして没し、実質的生還者は600名に過ぎませんでした。戦後メレヨンの悲劇として伝わり、将兵の出身者の多くが北海道出身であったことから札幌護国神社境内に慰霊碑を建立したものであります。

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北千島慰霊之碑(昭和50年8月建立) ポツダム宣言受諾により太平洋戦争が停戦した後の8月18日未明、ソ連軍は占守島も奇襲攻撃し、ポツダム宣言受諾に伴い武装解除中であった第九十一師団と戦闘となった。ソ連軍は1万の大軍を投入し一気に押しつぶそうとしたが幌延より援軍が到着、池田大佐率いる戦車聯隊(第十一戦車聯隊)も全軍突入し、重砲、高射砲は水平射撃で進軍してくる敵を猛射し戦闘は日本軍優勢に推移し、堤師団長は21日午前6時を期して総攻撃に移る直前、5時50分北部方面軍司令部より「至急停戦、武装解除セヨ」の命令を受け翌23日に停戦協定に調印し武装解除しました。日本側損害は戦死約350名、ソ連側は戦死約3千名でした。この戦闘により北海道東部のソ連軍による分割占領も無くなったと一部では言われています。

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南方地域戦死者慰霊碑(平成21年10月建立) 建立者のニューギニア方面での戦友380名及び南方戦線での全将兵の鎮魂を祈り建立

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北海道全海軍英魂之碑(昭和53年8月建立) 北海道・樺太にゆかりのすべての海軍戦死・戦病没将兵の霊を祀り建立。両側には重巡加古型用の主錨が2基置いてあります

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軍艦武蔵戦浸五十周年と書かれたもの(詳細不明)

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沖縄戦戦没者慰霊碑 以前は沖縄戦英霊記念の碑があったが新しく敷地も整備されて戦没慰霊碑が建っています。沖縄戦における戦没北海道出身将兵は1万800余名にものぼります。

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6月の後半なのでカラスの攻撃度が高く、何度も頭をかすめて飛んだり耳元をすり抜けるとき羽が当たったりで、しつこいのなんの。このカラスは苛ついているので葉の枝を折ったり威嚇しています。

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御朱印

ご創祀140年の緑の判が追加されましたね。

彰徳苑も含めて見開きで戴いたほうがよろしいかと。

初穂料はそれぞれ300円。

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追記:令和2年9月7日参拝してきました。

多賀神社のデザインが見開きの書置きタイプが追加されたのと、山鼻神社の御朱印がありました。

www.moiwa-orosi.com

 

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