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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

上磯郡知内町湯ノ里 湯ノ里稲荷神社 玄狐(げんこ)伝説に関係がある神社

正式名称は稲荷神社ですが、あちらこちらにあるので地名をつけた形で以降、当ブログでは呼ぶことにします。

湯ノ里稲荷神社(ゆのさといなりじんじゃ)は、北海道上磯郡知内町湯ノ里155-2にある神社で旧社格はなし。御祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)、大山祇命(おおやまつみみこと) 、馬形神(うまがたじん) で例祭日は9月14日。

二本の大きな木が特徴的な神社です。

玄狐(げんこ)伝説

松前藩第13世松前道広の命令で撃ちとった黒狐の祟りが起きたらしく、そこで城下に小祠を建てて狐の霊を供養したもの。享和2年(1802)城下唐津内沢奥に一社、知内に末社(現:湯ノ里神社)を建て玄狐(げんこ)稲荷と呼ぶ。城下のお社は後に熊野神社に移設。知内の玄古稲荷は、現在湯の里地区の湯ノ里稲荷神社に祭られています。

知内町雷公神社略記には、
玄古稲荷社
稲荷社は旧城内社として北の丸にて祈祷のところ19代大野土佐重正、命により当所に奉祀
(建立)寛政3年(1791年)
とあります。

湯ノ里地区

 湯ノ里の地名は和名で、この地区にある北海道最古といわれる知内温泉が由来とされています。知内温泉の開湯は1247年(宝治元年)で、砂金掘りに来た掘子が発見したといわれている。ただし、以前からアイヌの人々が利用していたとも言われる。1624年(寛永元年)には松前藩によって湯治場として整備され、歴代の松前藩主が湯治に訪れた。

 湯ノ里地区は昭和4年の地番改正までは萩砂里(ハギサリあるいはハギチャニ)と呼ばれ、アイヌ語のハ・イチャニ<hak-ichan-i>(浅き鮭の産卵場)に由来。現在その名前は知内川に架かる萩茶里橋にその名が残っています。

1727年(享保12年)享保十二年所附の福島村と尻内村の間に「湯の坂 湯の尻 ちらちら 萩ちや里(中略) 浅堀(中略) 上いか土 下いか土」などが記されている。

湯ノ里稲荷神社

以下は、北海道神社庁誌(1999、絶版)未公認神社の項から。
【由緒】
 明治以前、温泉入口に八木藤兵衛なる者が稲荷神社を建立したことに始まる。この人物が函館に移住した後の明治二年、現在地に社を移して祀った。(参考文献:知内町史)
【所在地】
〒049-1221 北海道上磯郡知内町湯ノ里155-2
【例祭日】
9月14日
【祭神】
宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
大山祇命(おおやまつみみこと) 
馬形神(うまがたじん)
【旧社格】
-

鳥居と狛犬だけで手水舎及び石灯籠もない寂しい神社です。

狛犬一対(昭和60年9月13日建立)

 

 

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松前郡福島町千軒 千軒神社

千軒神社(せんげんじんじゃ)は、北海道松前郡福島町千軒289にある神社で旧社格は無格社。福島大神宮の境外末社で別名一の渡神社ともいう。御祭神は大山祇命(おおやまづみのみこと)、金山彦命(かなやまひこのみこと)、罔象女命(みづはのめのみこと)で例祭日は不明。

福島町市街から、国道228号の福島峠を下りた所にある千軒集落の旧国道沿いにあり、隣には福島町 活性化センター あづまーる、ちょっと離れた国道沿いには地域活性化のために栽培している千軒そばを提供する店があります。

千軒地区

 大千軒岳へのアプローチとして重要な集落であり、ここから知内川を遡る林道を経て奥二股登山口駐車場から登山するルートが一般的みたいです。集落には大千軒岳登山者休憩所があり、前日にここで宿泊してから翌朝に登山する事ができる施設があります。

 大千軒岳は日本三百名山、花の百名山で渡島半島南西部では最高峰で標高1,072m。1896年(明治29年)に北海道で最初に一等三角点が設置された山で、日本三百名山のひとつです。山頂からは駒ヶ岳、函館山をはじめ、日本海に浮かぶ奥尻島や渡島大島、さらには津軽海峡をはさみ青森県の八甲田山、岩木山までもが一望できます。また、1693年(寛永16年)松前藩による隠れキリシタン処刑によって106人が殉教した地でもあり、金山番所跡と千軒平の尾根には十字架が建てられています。毎年7月の最終日曜日にはキリスト教徒殉教ミサが行われます。

令和5年10月末にヒグマによる事件が起きましたね。10月31日、登山中の男性3人がヒグマの襲撃を受けて2人が負傷、ヒグマの目元と喉にナイフで刺し難を逃れたとか。11月2日には6合目付近で29日から登山していたと見られる別の登山者の男性1人の遺体とヒグマの死体が発見されました。

 千軒の地名由来は和名で北海道 駅名の起源によると「もと碁盤坂といったが、昭和47年3月15日千軒に改めた。付近に大千軒岳があり、むかし金鉱開発のため約千軒の人家があったところから、このように名付けられたものである。碁盤坂は、付近の坂の上に自然石の碁盤のような石があったので、この名が出たという。」とありますが、結構違うようで福島町史では千軒地区の台地は旧名綱配野(つなはいの)と呼ばれたが、これは砂金掘たちが、山を洗って砂金を掘るため、鉱区の地割をするための縄を張っていたことの遺名であり、この付近も多くの砂金掘が稼働していた地域であることを示している。

 字千軒は昭和十七年の字地番改正以前、碁盤坂という地名であった。鍋こわし坂を下り、この綱配川を渡ったところに金山番所があって、ここを御番所と呼び、そこの坂を御番坂と呼んだものであり、それが後の碁盤坂につながったものである。とあります。1727年(享保12年)享保十二年所附に坂の下、茶屋峠、「一ノ渡り」、「わらひ野」「綱はへ野(つなはへの) 此辺くりの木野迄一里」とみえ、「蝦夷巡覧筆記」に「綱ハエ村」と記される。

千軒神社

以下は、福島町史を参考に作成。
【由緒】
 寛永元年(一六二四)一の渡住民佐藤甚左衞門建立、千軒大権現社、千軒山三社大明神ともいう。享和二年(一八〇二)松右衞門、金十郎、六助、長作の四人で再建立した。また、『馬形社佐々木家日記』によれば、白符神明社にあった三社大権現の三体の御神像のうちの一体を文化十二年(一八一五)千軒神社の御神体として奉遷したという記録がある。
福島大神宮の境外末社で別名一の渡神社ともいう。
【所在地】
〒049-1332 北海道松前郡福島町千軒289
【例祭日】
不明
【祭神】
大山祇命(おおやまづみのみこと)
金山彦命(かなやまひこのみこと)
罔象女命(みづはのめのみこと)
【旧社格】
無格社

不明碑(歌碑か?)

 

社号標

石灯籠一対(平成元年8月吉日建立)

 

手水舎

 

手水石は自然石とコンクリートの複合

 

二ノ鳥居

石灯籠一対(平成12年11月建立)

 

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【参拝印】松前郡福島町月崎 月崎神社

月崎神社(つきさきじんじゃ)は、北海道松前郡福島町月崎211番地2にある神社で旧社格は無格社。御祭神は月夜見尊(つきよみのみこと)で例祭日は8月16日。

神社は福島川河口左岸側に位置し、規模は小さいながらも連なった木製灯篭がなんとも言えない趣を感じさせる雰囲気です。

一ノ鳥居と社号標

月崎神社

以下は、北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 創立年代不詳。明応元年(1492)村中にて再建する。古くは月ノ崎観音堂とも称され、万治3年(1660)には社殿が整い、文化3年(1806)8月、月ノ崎大明神社と改められた。更に明治12年(1879)月崎神社と改名。寛永元年(1624)1月16日御神託により、当村名アイヌ語の「オリカナイ村(折迦内)」を「福島村」と改村。後に1月16日を改村記念日と定め、毎年祭典が行われるようになった。慶応2年(1866)に社殿改築、以来再三の修復が行われてきたが、再建500年を記念し、平成4年(1992)7月に本格的な神明造の社殿が完成した。
合併により合祀された歴史をもつ御祭神
羽黒神社 木花咲夜姫命 元和9年創祀
馬形神社 大御食都神 寛文2年創祀 昭和18年合祀
境内外末社
八雲神社(やくもじんじゃ) 須佐之男命(すさのおのみこと)
【所在地】
〒049-1321 北海道松前郡福島町字月崎211番地2
【例祭日】
8月16日
【祭神】
月夜見尊(つきよみのみこと)
【旧社格】
無格社

 

 

一ノ鳥居はコンクリート製でした

狛犬一対(平成7年8月16日建立)

 

石灯籠一対(平成8年1月16日建立)

 

手水舎

冷たい水が流れており地下水でして水質検査表もあります。

 

由緒書

本殿

何かのお社跡か石碑跡

社殿左側に水の音がして行ってみると地下水を汲み上げている場所でした

本管の左側から出ている細い管が手水舎に向かっています

冷たくて美味し~

御朱印

福島大神宮にて参拝した証の写真を見せ戴きました。
正式な御朱印は無く、宮司印なので参拝印となります。

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【参拝印】松前郡福島町白符 白符大神宮 北海道一のヒノキの巨木に圧倒される

白符大神宮(しらふだいじんぐう)は、北海道松前郡福島町白符544番地にある神社で旧社格は村社。御祭神は天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)で例祭日は7月15日。

国道228号から白符川右岸側の道に曲がりちょっと行くと神社はあり、昔訪問したときは木々が生い茂り薄暗い参道と社殿でしたが、今回訪問してびっくり!斜面の檜は伐木され光の当たる明るい神社になっています。そして下からあの巨木が目立つ様になっていました。

一ノ鳥居と社号標

白符地区

 福島町白符はかつて白符村(しらふむら)といい、東在の一村で白符川の流域及び福島村の南に位置する。
松前藩家老を勤めた松前景広の支配地とされ(「松前家家臣履歴書」中島家文書)、1700年(元禄13年)の支配所持名前帳によると松前藤兵衛(広保)の支配地。
1702年(元禄15年)の元禄郷帳に「しらふ村」とあり、1727年(享保12年)享保十二年所附に白府村と記される。1731年(享保16年)の津軽一統志に「しらふ 小船有 澗あり 家二十軒」とみえる。また「しらふ村より半里 をりかんない村迄」として「家数四、五十軒 船付の川有」と記される。「をりかんない村」は福島村のこと。1834年(天保5年)天保郷帳(松前嶋郷帳)では白符村とする。

白符の地名由来はアイヌ語で、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では、
、チロ<cir-o-p>鳥・多き・所 永田方正地名解
福島町史には、『白符とは、アイヌ語のチロプに発し、古来から鷹(たか)の多い場所であったと思われ、塒(とや)の沢など鷹のねぐら(巣)のあったところで、『村鑑下組帳』でも「塒場、壱ケ所、塒之沢、近來鷹待無之、古來、此塒ニ而て白符之鷹待候ニ付、村名ヲ白符と申候由申傳」とあって、白符村と鷹との結び付きの強いことを強調している。』とあります。
また、北海道 駅名の起源では、『この地の字名「白符」からとったものであるが、以前この地方にはタカが群生しており、そのなかの一羽の白タカが長であったといわれているので、「白符」は「白タカ」の意と思われる。』とありますが、白タカ説は違う気がしますね。

1900年(明治33年)7月1日 松前郡福島村と白符村が合併し、松前郡福島村となる。
1944年(昭和19年)2月11日 町制を施行し、福島町となる。

白符大神宮

以下は、北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 寛文6年松前藩松前美作守景広建立する。旧藩松前岩松直筆の額並に御附幕1張奉納あり。年中神事料として旧藩松前熊五郎廣昭より廩米4斗81俵と金1両年々賜り、嘉永3年に至りて廃せられ、村社列格後祭典修繕等白符村中にてこれを行う。昭和17年1月2日拝殿焼失し、同年10月15日神明造にて新築落成する。旧社格神明社は、明治9年10月、白符大神宮と改められ、村社に列せられた。
合併により合祀された歴史をもつ御祭神
恵比須神社 事代主神 享保2年合祀
熱田神社 日本武尊 明治4年合祀
鹿島神社 武甕槌神 明治4年合祀
稲荷神社 宇迦廼御魂神 宝暦8年創祀 大正4年合祀
荒神神社 素戔嗚尊 享保元年創祀 大正5年合祀
宇迦廼御魂神・素戔嗚尊
【所在地】
〒049-1301 北海道松前郡福島町字白符544番地
【例祭日】
7月15日
【祭神】
天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)
【旧社格】
村社
【社宝等】
樹齢約500年の桧は、開道百年記念の時、北海道の名木に選定された。

この鳥居そばのオンコもデカいですね

伐木のお陰で下から例の巨木がはっきり見えるようになりました

なだらかな勾配の階段

右側を歩くと手水舎には行けません^^;(奉納年不明)

 

石灯籠一対(建立日不明)

 

狛犬一対(平成15年7月15日建立)

 

左斜面上に不明なお社(扉には日と月の紋章)

 

札幌在住民にとって竹林って新鮮に見えるんです

社殿裏にはあの巨木

標板には推定樹齢約300年(S48時)とあり現在に直すと約350年になります。

んで、厳密にはヒノキ(桧)ではなく、ヒバ(ヒノキアスナロ)なのです。

穏やかな天気です

さて戻りますか

御朱印

福島大神宮にて参拝した証の写真を見せ戴きました。
正式な御朱印は無く、宮司印なので参拝印となります。

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【参拝印】松前郡福島町宮歌 宮歌八幡神社

正式名称は八幡神社ですが、あちらこちらにあるので地名をつけた形で以降、当ブログでは呼ぶことにします。

宮歌八幡神社(みやうたはちまんじんじゃ)は、北海道松前郡福島町宮歌573番地にある神社で旧社格は村社。御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)で例祭日は8月20日。

宮歌集落の入口に当たる国道228号と旧道の分岐付近に神社はありました。境内地は細長く広くないのですが、2基の白い鳥居が目立つ神社です。

宮歌地区

 福島町宮歌はかつて宮歌村(みやうたむら)といい、東在の一村で宮歌川の流域に位置する。地名由来は不明で、福島町史には「宮歌 ミヤオタ(ミヤ・ 砂浜)」と消化不良的な解説が載っている。

 1731年(享保16年)の津軽一統志に「宮のうた 小川有 澗あり 家二十軒」とみえる。1702年(元禄15年)の元禄郷帳に「宮のうた村」、1727年(享保12年)享保十二年所附には「宮の哥村 此辺おやち沢迄一里」と記される。1834年(天保5年)天保郷帳(松前嶋郷帳)では宮之哥村。
 宮歌村文書、宮歌村旧記(北海道大学北方資料室蔵)によると、寛永三年(一六二六)西津軽鰺ヶ沢あじがさわ(現青森県鰺ヶ沢町)から六人の漁民が来て澗内(まないの)沢に定着し、当地に家を建てた。2~3年後には戸数も二〇軒ほどになり、澗内川で引網を張って鮭をとったという。

 宮歌村旧記によれば1635年(寛永12年)に二代松前藩主松前公広の三男松前八左衛門泰広の知行地となり、用人の加川喜三郎が江戸から下り、上鍋島(かみなべしま)から下根祭(しもねまつり)岬までを松前藩主より拝領したという。1804年(文化4々)に幕府直轄、1821年(文政4年)に再び松前藩領となる。この間、1739年(元文4々)から1877年(明治10年)頃まで、東隣の白符村との間で領地の帰属をめぐって村境争論が続き、この文書群が今日まで残る

 1906年(明治39年)4月1日 北海道二級町村制施行により、松前郡吉岡村、礼髭村、宮歌村が合併し吉岡村となり、1955年(昭和30年)1月1日 吉岡村は松前郡福島町と合併し福島町になりました。

宮歌八幡神社

以下は、北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 明暦元年(1655)知行主幕府旗本松前八左衛門泰広が 知行地の平安を祈り建立し、正八幡宮ともいわれ八左衛門使用の弓矢、連歌、くじ箱等が献納された。草創時の棟札が現在も残されており当初の別当は泉蔵坊でのち藤枝家が代々これを勤めた。その後元禄8年(1695)、寛延4年(1747)、安永4年(1775)と新社殿を造立している。この宮歌八幡社には近世初頭から明治にいたる宮歌村文書87点が保存されていて北海道内では1村古文書として貴重なものであると評価されている。
合併により合祀された歴史をもつ御祭神
稲荷神社(いなりじんじゃ) 宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと) 宝暦10年創祀
川上神社(かわかみじんじゃ) 瀬織津姫命(せおりつひめのみこと) 享保年創祀
恵比須神社(えびすじんじゃ) 事代主神(ことしろぬしのかみ) 明和5年創祀
産胎神社(さんたいじんじゃ) 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと) 嘉永3年創祀
氏子沢稲荷小社 宇迦御魂神 昭和2年創祀 合祀不明
【所在地】
〒049-1451 北海道松前郡福島町字宮歌573番地
【例祭日】
8月20日
【祭神】
誉田別命(ほんだわけのみこと)
【旧社格】
村社

鳥居脇には神社にはおなじみの水準点(一等水準点6361 H=3.4019m S61設置)

石灯籠一対(平成26年12月吉日建立 宮歌町内会)

 

手水鉢(奉納年不明)

二ノ鳥居

石灯籠一対(昭和12年5月吉日建立)

 

色を塗ったのか新しく見える社殿

 

裏手に境内社(御祭神は不明)

 

御朱印

福島大神宮にて参拝した証の写真を見せ戴きました。
正式な御朱印は無く、宮司印なので参拝印となります。

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【参拝印】松前郡福島町吉岡 吉岡八幡神社

正式名称は八幡神社ですが、あちらこちらにあるので地名をつけた形で以降、当ブログでは呼ぶことにします。

吉岡八幡神社(よしおかはちまんじんじゃ)は、北海道松前郡福島町吉岡70番地にある神社で旧社格は村社。御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)で例祭日は8月15日。

青函トンネルの工事では掘削工事の一大基地となり、工事事務所や寄宿舎などが立ち並び賑わった街です。現在はかつてのにぎわいもなく、かなり寂しい所となっています。

一ノ鳥居と社号標(吉岡八幡神社となっていますね)

吉岡地区

福島町吉岡はかつて吉岡村(よしおかむら)といい、それ以前には穏内(おんない)と呼ばれていました。

地名由来はアイヌ語でオムナイ<o-mu-nai>川尻・塞がる・川
永田地名解では「旧記に穏内(おおむない)とあり。後人吉岡と改む」とあります。
北海道駅名の起源にはかつてあった渡島吉岡駅のことが書いてあり、オムナイの説明の後に「川尻付近にヨシが密生していたので葭岡と称し、寛永年間(1624-1643)に吉岡と改められたという。」とあります。

 当地には道南十二館の一つ穏内館(おんないのたて)があり、松前家の歴史書である『新羅之記録』によると城主が蒋土甲斐守季直(こもつちかいのかみすえなお)で、康正3年(1457)のコシャマインの蜂起で陥落しました。後に二世兵庫之介季成に男子なく廃絶しますが、その名跡を惜しんだ松前藩主五世松前慶廣は六男で家老の松前伊予景廣(河野系松前氏)の末男である松前季信に嗣がせ、後に高橋姓へと改姓後代々松前氏に禄仕し幕末には百五十石の家臣となっています。
 穏内館の遺構は昭和40年の調査で館崎の地名のある台地上に塁壁と空堀・門構え等の遺構が発見されましたが青函トンネル工事用地及び国道用地として削平され遺構は消滅しました。

 1731年(享保16年)の津軽一統志に「おん内 小船 澗有 家五十軒程」とみえる。また「れいひけ村より半里 をんない村迄 家数三、四十軒」「をんない村より半里 しらふ村迄」とも記される。 1681年(天和元年)頃の松前国蝦夷図(市立函館図書館蔵)には吉岡とみえるので、この頃改名したと考えられ、1702年(元禄15年)の元禄郷帳に「よし岡村」とある。1727年(享保12年)享保十二年所附には南の礼髭れいひげ村の次に「吉岡村 松前大泊り川より三里拾六丁」とあり、勘解由殿澗、「夷カ沢 一里」、「宮の歌村」と続く。1834年(天保5年)天保郷帳(松前嶋郷帳)では東在に吉岡村とみえる。1786年(天明6年)蝦夷拾遺によると吉岡村は五〇戸足らず、二六〇人足らずとある。

 1906年(明治39年)4月1日 北海道二級町村制施行により、松前郡吉岡村、礼髭村、宮歌村が合併し吉岡村となり、1955年(昭和30年)1月1日 吉岡村は松前郡福島町と合併し福島町になりました。

吉岡八幡神社

以下は、北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 寛永3年(1626)村中建立、元文4年(1739)松前藩主第11世邦広公再建しているが当初は笹井(常磐井)家の兼務でのち宮歌八幡神社の藤枝家の兼務となった。安永7年(1778)天明7年(1787)文化7年(1810)と再建されている。
境内外末社
館神神社(だてがみじんじゃ) 蒋土甲斐守季直(こもつちかいのかみすえなお) 
金比羅神社(こんぴらじんじゃ) 大物主命(おおものぬしのみこと) 宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと) 事代主神(ことしろぬしのかみ)
【所在地】
〒049-1453 北海道松前郡福島町字吉岡70番地
【例祭日】
8月15日
【祭神】
誉田別命(ほんだわけのみこと)
【旧社格】
村社

右側だけ大きめの石灯籠1基

手水鉢(奉納年不明)

 

左側に無人社務所

メモって置くのを忘れたなんかの記念碑^^;

 

ここにもマムシ出没注意が…

二ノ鳥居の存在感が凄い

弘化四丁未歳三月吉日とあり1847年のことである

 

このクラックはちょっと危険かも

 

階段下の狛犬一対(建立日不明)

 

階段上の狛犬一対(平成6年8月吉日建立)

 

左側に赤い鳥居の境内社(社号がないので御祭神は不明)

 

かなり立派な作りの拝殿と手前に石灯籠一対(平成5年7月吉日建立)

 

拝殿右手に忠魂碑

 

拝殿左手に神輿庫

 

 

帰り際に猫ちゃんがたむろしていました

 

御朱印

福島大神宮にて参拝した証の写真を見せ戴きました。
正式な御朱印は無く、宮司印なので参拝印となります。

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