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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

【参拝印】松前郡福島町吉岡 吉岡八幡神社

正式名称は八幡神社ですが、あちらこちらにあるので地名をつけた形で以降、当ブログでは呼ぶことにします。

吉岡八幡神社(よしおかはちまんじんじゃ)は、北海道松前郡福島町吉岡70番地にある神社で旧社格は村社。御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)で例祭日は8月15日。

青函トンネルの工事では掘削工事の一大基地となり、工事事務所や寄宿舎などが立ち並び賑わった街です。現在はかつてのにぎわいもなく、かなり寂しい所となっています。

一ノ鳥居と社号標(吉岡八幡神社となっていますね)

吉岡地区

福島町吉岡はかつて吉岡村(よしおかむら)といい、それ以前には穏内(おんない)と呼ばれていました。

地名由来はアイヌ語でオムナイ<o-mu-nai>川尻・塞がる・川
永田地名解では「旧記に穏内(おおむない)とあり。後人吉岡と改む」とあります。
北海道駅名の起源にはかつてあった渡島吉岡駅のことが書いてあり、オムナイの説明の後に「川尻付近にヨシが密生していたので葭岡と称し、寛永年間(1624-1643)に吉岡と改められたという。」とあります。

 当地には道南十二館の一つ穏内館(おんないのたて)があり、松前家の歴史書である『新羅之記録』によると城主が蒋土甲斐守季直(こもつちかいのかみすえなお)で、康正3年(1457)のコシャマインの蜂起で陥落しました。後に二世兵庫之介季成に男子なく廃絶しますが、その名跡を惜しんだ松前藩主五世松前慶廣は六男で家老の松前伊予景廣(河野系松前氏)の末男である松前季信に嗣がせ、後に高橋姓へと改姓後代々松前氏に禄仕し幕末には百五十石の家臣となっています。
 穏内館の遺構は昭和40年の調査で館崎の地名のある台地上に塁壁と空堀・門構え等の遺構が発見されましたが青函トンネル工事用地及び国道用地として削平され遺構は消滅しました。

 1731年(享保16年)の津軽一統志に「おん内 小船 澗有 家五十軒程」とみえる。また「れいひけ村より半里 をんない村迄 家数三、四十軒」「をんない村より半里 しらふ村迄」とも記される。 1681年(天和元年)頃の松前国蝦夷図(市立函館図書館蔵)には吉岡とみえるので、この頃改名したと考えられ、1702年(元禄15年)の元禄郷帳に「よし岡村」とある。1727年(享保12年)享保十二年所附には南の礼髭れいひげ村の次に「吉岡村 松前大泊り川より三里拾六丁」とあり、勘解由殿澗、「夷カ沢 一里」、「宮の歌村」と続く。1834年(天保5年)天保郷帳(松前嶋郷帳)では東在に吉岡村とみえる。1786年(天明6年)蝦夷拾遺によると吉岡村は五〇戸足らず、二六〇人足らずとある。

 1906年(明治39年)4月1日 北海道二級町村制施行により、松前郡吉岡村、礼髭村、宮歌村が合併し吉岡村となり、1955年(昭和30年)1月1日 吉岡村は松前郡福島町と合併し福島町になりました。

吉岡八幡神社

以下は、北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 寛永3年(1626)村中建立、元文4年(1739)松前藩主第11世邦広公再建しているが当初は笹井(常磐井)家の兼務でのち宮歌八幡神社の藤枝家の兼務となった。安永7年(1778)天明7年(1787)文化7年(1810)と再建されている。
境内外末社
館神神社(だてがみじんじゃ) 蒋土甲斐守季直(こもつちかいのかみすえなお) 
金比羅神社(こんぴらじんじゃ) 大物主命(おおものぬしのみこと) 宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと) 事代主神(ことしろぬしのかみ)
【所在地】
〒049-1453 北海道松前郡福島町字吉岡70番地
【例祭日】
8月15日
【祭神】
誉田別命(ほんだわけのみこと)
【旧社格】
村社

右側だけ大きめの石灯籠1基

手水鉢(奉納年不明)

 

左側に無人社務所

メモって置くのを忘れたなんかの記念碑^^;

 

ここにもマムシ出没注意が…

二ノ鳥居の存在感が凄い

弘化四丁未歳三月吉日とあり1847年のことである

 

このクラックはちょっと危険かも

 

階段下の狛犬一対(建立日不明)

 

階段上の狛犬一対(平成6年8月吉日建立)

 

左側に赤い鳥居の境内社(社号がないので御祭神は不明)

 

かなり立派な作りの拝殿と手前に石灯籠一対(平成5年7月吉日建立)

 

拝殿右手に忠魂碑

 

拝殿左手に神輿庫

 

 

帰り際に猫ちゃんがたむろしていました

 

御朱印

福島大神宮にて参拝した証の写真を見せ戴きました。
正式な御朱印は無く、宮司印なので参拝印となります。

www.moiwa-orosi.com