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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

茅部郡森町砂原(旧砂原町) 国指定史跡「東蝦夷地南部藩陣屋跡 砂原陣屋跡」を訪問

南部藩砂原陣屋跡は、北海道茅部郡森町砂原3丁目(旧砂原町四軒町)にあり幕末に幕府が仙台、秋田、南部、津軽及び松前の5藩に蝦夷地警衛の分担を命じ、そのうちの南部藩により作られた陣屋跡です。旧砂原町市街地の噴火湾沿岸から約100m離れた標高約13mの海岸段丘上に位置し、江戸時代に築かれた土塁がほぼそのままの形で残されています。(発掘調査で外堀があったことが解りましたが、現在は埋まっていて形状は分りません。)

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国指定史跡 東蝦夷地南部藩陣屋跡 砂原陣屋跡

 安政二年(1855年)南部藩は、恵山岬から幌別までの沿岸一帯の警備を幕府より命じられ、箱館(函館市)に元陣屋を、室蘭に出張陣屋を、砂原・長万部には分屯所を設けることにしました。砂原分屯所(南部陣屋)は安政3年(1856)年10月から築造が始まり翌年1月に完成、東西37間(66.6メートル) 南北33間(59.4メートル)の方形に、周囲の土塁の高さは約1丈(3メートル)とあります。兵隊約50名が警護に当たり、市中と神社脇や駒ヶ岳のふもとに小屯(見張所)を置きました。明治維新に伴い、明治元年(1868)7月に南部藩は陣屋を捨て自藩に引き揚げました。

 砂原町史には屯所の陣容について書かれていて、以下のとおりです。

<砂原(屯所)詰>
使番一騎、小奉行一人、火業師三人、火業御手傳六人、鐵鑓武者五人、螺役一人、太鼓役一人、締役一人、村夫五人、
右え(その他)従僕共五〇人、

 森町教育委員会では、昭和48年に土塁とその内部が国の史跡に指定されましたが、史跡に含まれていない土塁外側の堀を確認するため平成23年から調査を行っています。昨年確認された堀跡付近をさらに掘り下げたところ、地表面から約3mの地点より堀の底面を検出しました。底面には厚さ約5㎝の粘土が貼られており、堀の水が浸透しないよう工夫されていたようです。

 

 大正4年作図、昭和3年鉄道修正地形図

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陣屋南側(山側)出入口

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裏側なので土塁もそれほど高くはありません

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郭内の様子

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入り口脇には忠魂碑があります

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石灯籠(昭和42年7月建立)

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砂原村戦没者碑(昭和41年8月建立)

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村の規模としては戦没者の数が多いです

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忠魂碑(大正2年5月建立)

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北側(海側)土塁角から郭内の様子

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北側(海側)出入口

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規模の小さい屯所なのであまり見るものもありませんが、江戸時代の北方防衛を意識した史跡としては、南部藩モロラン陣屋跡、南部藩ヲシャマンベ陣屋跡、仙台藩白老元陣屋跡と共に貴重なものです。

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