page contents

藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう ほとんど気楽な食レポが多いですが北海道内のダム訪問・ダムカード収集・神社訪問・御朱印収集にも目覚めてしまいました。


スポンサードリンク
 

北斗市(旧上磯町)野崎 国指定史跡 松前藩戸切地陣屋跡

 戸切地(へきりち)陣屋跡は、幕末期の箱館開港に伴い幕府が松前藩に命じて1855年(安政2年)に作らせた陣屋で、直接的な海岸防衛を意識しないで内陸に作った出城みたいな防衛拠点です。張り出しのある砲郭も陣屋自体の防御の為の張り出しであって、街道筋や平野部を狙うものではありません。

ただ土塁などの保存状態は素晴らしく史跡としては立派です。

 地名はかつての清川村野崎ですが、更に昔は戸切地(へきりち)村といいアイヌ語の「ペケpeker-pet>清澄な・川」が転訛した名前で、更に意訳して清川の地名になりました。

f:id:ksn-bee:20190526213448p:plain

戸切地陣屋跡

北斗市HPから

 安政元年(1854)、日米和親条約(神奈川条約)締結による箱館港の開港に伴い、徳川幕府は外国船渡来による予測できない事態に備えて蝦夷地の防衛を強化する一環として、松前藩に本陣屋を構築させ守備に当たらせた。

 本陣屋は函館湾の北西にあり、市街地から約5㎞内陸に入った標高約70mの見晴らしの良い台地に位置し、函館湾内を見通せる守りの堅い「とりで」である。安政2年6月着工、10月に竣工した。

 構造は四稜郭で、その一角より首を出した亀のような形をしている。その首の部分には6基の砲座が添えられている。郭内に17棟の建物跡があり、120~160名の松前藩士らが生活していたと考えられている。陣屋後方には付属火薬庫跡も存在している。明治元年(1868)の箱館戦争で、幕府脱走軍(榎本軍)の進撃に伴って、守備隊によって自焼、放棄された。

 昭和54年(1979)から平成13年(2001)までの23年間で環境整備事業を完了している。

内陸の微高地にあり、あまり地形的にも重要性のある所には見えないですよね。実際旧幕府軍もこの陣屋を再利用はしませんでした。

f:id:ksn-bee:20190526215136p:plain

広い駐車場から見える外郭の土塁はほんの一部だけですが、ずーっと奥まで土塁があって規模は結構大きいです。

f:id:ksn-bee:20190526213841j:plain

f:id:ksn-bee:20190526213900j:plain

南向きの主要出入り口

f:id:ksn-bee:20190526213918j:plain

f:id:ksn-bee:20190526213929j:plain

張り出した砲郭のある方向

f:id:ksn-bee:20190526213945j:plain

門の奥には馬隠しの土塁があります

f:id:ksn-bee:20190526213958j:plainf:id:ksn-bee:20190526214039j:plain f:id:ksn-bee:20190526214304j:plainf:id:ksn-bee:20190526214333j:plain f:id:ksn-bee:20190526214245j:plain

郭内の様子

f:id:ksn-bee:20190526214027j:plain

砲郭の様子 土塁の切れ込みがそれぞれの砲の出し入れ部です。

f:id:ksn-bee:20190526220755j:plain

この砲郭は単に、この陣屋の側面や正面部を敵に攻められた時の張り出しであって、内部から外を見たときも同程度の標高が広がっていて、決して大砲で街道や平野部を抑えるためではありません。(当時の大砲の射程も1~2km程度なので)

砲郭から側面方向(高低差はなく見晴らしはよくありません)

f:id:ksn-bee:20190526214051j:plain

砲郭から正面方向(ここも高低差は僅かに下がっていってる程度です)

この陣屋に攻めてくる敵を狙う感じですね。

f:id:ksn-bee:20190526214133j:plain

砲郭から出入り口方向

f:id:ksn-bee:20190526214216j:plain

砲郭から主郭

f:id:ksn-bee:20190526221600j:plain

砲郭の張り出し部

f:id:ksn-bee:20190526214231j:plain f:id:ksn-bee:20190526214348j:plain




スポンサードリンク