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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

北斗市(旧大野町)字一本木 史跡 開拓使三角測量一本木基点(函館助基線)

勇払基線の時にも述べましたが、基線とは日本の三角測量の基点となる直線(基線)の一つであり、その両端からの角度を用いて三角網を形成して広げていく為に、基線の距離測定は精密さを要求されます。

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一本木基点

北海道指定史跡 平成16(2004)年9月22日指定
所在地:北斗市一本木526、527、528、766
所有者:北斗市
指定面積:283㎡

 北海道開拓使は正確な北海道地図を作成するため、明治6年(1873)3月、米人ワッソンを測量長に三角測量事業を開始、勇払と鵡川間の約14,860mの基線を画し、その両端の基点に標石を建て勇払基線を設定した。

 翌7年、米人デイがワッソンに代わって測量を行ったが、勇払基線を検証するため、明治8年、函館に助基線を設定することとなった。同年5月デイは荒井郁之助とともに函館付近の地勢を調査した結果、亀田郡亀田村(現函館市田家町)と亀田郡一本木村(現北斗市一本木)の間に基線を画すことに決定。10月下旬に勇払基線の測量を終えた村田千万太郎の一行が函館に戻り、11月中に亀田村と一本木村の基点に標台と標塔を建て、基線の予備測量を終えた。精密な測量は翌9年6月になされたが、その測定値は2里1町15間2尺3寸4分(約7,990.819m)といわれている。

 現在、北斗市に残存する標石1基は、上辺30.1㎝四方、底辺45.0㎝四方、高さ96.5㎝の安山岩製で、昭和45年(1970)北海道開拓記念館の調査で、標石の土台石の下に函館測候所の創設者である福士成豊の名の刻まれた石柱が確認された。

 北海道の三角測量事業は、我が国における本格的な三角測量の先駆をなしたもので、この標石は日本の測量史上、極めて重要な意義を持つものである。

 函館基線のもう一方の亀田基点は、現在の函館市田家町9-29の大称寺敷地内にありましたが、昭和45年に発掘調査され、石柱は北海道開拓記念館に保管されています。現地には「北海道開拓使測量基標亀田村基標跡」の碑があります。

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一本木会館の隣にポツンとあり、誰も訪れる人は居ないような所です。

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相手方の亀田基点の方向は高規格道路の盛土で全く見えなくなりましたね。

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