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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

松前郡松前町清部 清部八幡神社

正式名称は八幡神社ですが、あちらこちらにあるので地名をつけた形で以降、当ブログでは呼ぶことにします。

清部八幡神社(きよべはちまんじんじゃ)は、北海道松前郡松前町清部517番地にある神社で旧社格は村社。御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)、軻遇突智命(かぐつちのみこと)で例祭日は6月15日。

海岸の旧道から緩やかに上った高台に神社はあり、境内は広くはないものの樹木に囲まれており、文政12年正月(1829年のこと)と刻まれた石灯籠に歴史を感じます。

清部地区

 かつては清部村(きよべむら)であり、1915年(大正4年)4月1日北海道二級町村制施行により松前郡江良町村、原口村、清部村が合併し、大島村が発足し清部村としては消滅しました。その後、1954年(昭和29年)7月1日 松前郡松前町、大沢村、小島村、大島村が合併し、松前町の一部となりました。

 清部が地名として文書に出てくるのは、1702年(元禄15年)の元禄郷帳に「幾よべ村」、1727年(享保12年)享保十二年所附に「清部村 此所浜迄もつうち迄合三十六丁一里」、1731年(享保16年)の津軽一統志に「きよべ 家七拾軒」と記され、当時は江良町村とともに大きな集落であった。1834年(天保5年)天保郷帳(松前嶋郷帳)に清部村とみえる。

 1741年8月29日(寛保元年7月19日)未明に日本海で発生した大津波である寛保津波(渡島大島の噴火に伴う山体崩壊が原因、松前藩での死者数は2083人でアイヌ人の死者は不明[資料にアイヌの被害状況の記載がないことから、アイヌの被害調査は未実施と推測されている])で、清部の詳細は分からないがほとんど全滅と神社の由緒に記載されていました。

 清部の地名由来はアイヌ語で、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では、

キオペ<ki-o-pe>菅茅の類多き所[カヤ・多くある・もの] 〈 kiの後に動詞のoは普通付けないし、またoの後にpeは付けない。〉永田方正地名解(山田秀三補足説明)

キウンペ(キユンペ)<ki-un-pe>(kiyun-pe) 茅芳等の有る所〈カヤ・ある・もの(川)〉〈呼ぶときは渡り音がつくのでキユンペとなる。〉上原熊次郎地名考(山田秀三補足説明)
とあり、リストでは「 上原解の方が自然な形と思われる。」という補足を付けています。

清部八幡神社

以下は、北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 本村の元名はキオツペと稱し内地より漂泊渡道の人々一団となり砂金採掘に従事していた、350年前の元亀天正の頃本社が創立した。其の後寛保元年2代将軍家斉の頃津波にて殆んど全滅の状態になり漸次内地人の渡来と共に本殿は3尺四方、拝殿は間口2間半奥行3間となる。明治4年9月社殿改築、大正7年11月12日近傍の民家より出火し北西の風強烈で直ちに社殿に延焼し本殿と拝殿、並びに宇賀之魂命を奉祀した稲荷神社明治39年の改築の社殿も焼失する。当時総代人西沢留五郎が65才の老齢なるも、自家の危急を顧みず直ちに社殿に馳せつけ、御神体と刀剣2振を奉持し、火中を逃れ出で、鎮火後恵比須神社へ奉遷した。昭和48年11月6日現在の社殿を建立、前宮司石川佳中、7名にて遷座式を行い、10月9日小学校にて神社新築祝賀会を行った。
【所在地】
〒049-1783 北海道松前郡松前町字清部517番地
【例祭日】
6月15日
【祭神】
誉田別命(ほんだわけのみこと)
軻遇突智命(かぐつちのみこと)
【旧社格】
村社
【特殊神事】
松前神楽

石段を上がった先に一ノ鳥居

木製の両部鳥居ですね

二ノ鳥居は鋼製で境内はブロック塀で囲まれていて、ここだけが味気ないところ。

社号標は裏面に昭和48年12月12日建立 清部八幡神社建設委員会

鳥居をくぐってすぐ左側に石灯籠1基(右側にはありません)

 

●3月吉日?

台座はなんて書いてあるのかな?(客舩海上安全はわかった)

 

手水舎

小ぶりながらも立派な手水石は昭和8年2月11日奉納

 

う~ん、左側にわからない碑が。。。もしかして山之神?

 

石灯籠一対

 

なんと文政十二己丑(つちのとうし)年正月と刻まれていて1829年のことです。

狛犬一対(平成2年8月吉日建立)

 

扁額は八幡宮

社殿右側に無人社務所

社殿左側には小さなお社があり、猿田彦のお面がありました。

 

 

 

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