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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

【道南十二館】松前郡松前町神山 原口館(はらぐちだて)擬定地とされていた場所

 道南十二館の一つ原口館(はらぐちだて)跡は、原口漁港の北側300mほどの海岸段丘上にあり、もともと戸井館の城主であった岡部六郎左衛門尉季澄が、蝦夷の襲撃を受け原口に逃れて館を築いたとされ、原口館は長禄元年(1457)のコシャマインの戦いで陥落しました。

 平成9年~11年に松前町教育委員会の発掘調査によると、幅5.4m東西36m南北約120mの大規模な壕が見つかり、壕の中や周囲から10世紀~12世紀代の擦文土器も出土したことから同時期にあった乙部町小茂内遺跡と同様の、台地上に壕を巡らせた古代の防御性集落跡とわかりました。中世の年代を示す出土品がなかったことから原口館であったという確証は得られませんでした。

道南十二館(どうなんじゅうにたて)とは

 中世(15世紀~16世紀)の蝦夷地(北海道)渡島半島(渡島国)にあった和人支配地の館の総称で、『新羅之記録』江戸時代に幕命により編纂された松前家系図をもとに補筆して作成された記録に十二の館が記されていることから、この名がついた。

 12の館(たて)は西の上ノ国町にある花沢館から、東は函館市に所在する志苔館まで、渡島半島南端の海岸線に分布し、檜山系安東氏の被官である館主はこれらの館をアイヌ民族や和人商人との交易や領域支配の重要拠点とした。

 長禄元年(1457年)のコシャマインの戦いの際には12館のうち10館が落城したことでも知られる。

画像出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』道南十二館

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現地の様子

何にもなくさっぱり分かりません

昔、説明板があったのですが。。。

www.moiwa-orosi.com