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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

檜山郡上ノ国町大安在 昇平丸最期の地 供養塔

昇平丸(しょうへいまる)は、幕末に薩摩藩が幕府に対して当時薩摩の庇護下にあった琉球王国の防衛を名目に建造した洋式軍艦であり安政元年12月12日(1855年1月29日)に竣工しました。

嘉永7年5月10日(1854年6月5日)に竣工した鳳凰丸に続いて日本で2番目の洋式軍艦である。

 竣工後、安政元年2月13日(1855年3月30日)に鹿児島を出帆し江戸へ向かい、島津斉彬乗船のもと大砲発射試験などを行い、徳川家定の命により8月13日(1855年9月23日)に幕府へ献上され「昌平丸」と改称されました。

 維新後、明治2年8月29日(1869年10月4日)大蔵省所管の昇平丸は咸臨丸と共に開拓使所管となり、9月18日(1869年10月22日)開拓使に引き渡され輸送船として使われました。

 明治2年12月24日(1870年1月25日)に米穀などを積み函館港を出帆し石狩へ向かうが、逆風のために安渡(現在の青森県むつ市大湊)に漂着、明治3年1月19日(1870年2月19日)に同地を出帆したが、 明治3年(1870年)3月松前沖で嵐に遭遇し北海道上ノ国木の子村の猫澤海岸で高波により座礁して破船しました。

建造所    桜島瀬戸村(漕ノ浦)造船所
運用者    薩摩藩-江戸幕府-開拓使
艦種    バーク型帆船
建造費    30,000両

起工    嘉永6年5月29日(1853年7月5日)
進水    安政元年4月3日(1854年4月29日)
竣工    安政元年12月12日(1855年1月29日)
最期    明治3年3月座礁

排水量    370 トン(推定)
長さ    17間(30.9m)
水線長    15間(27.27m)
幅    4間(7.27m)または4間1尺(7.58m)
深さ    2間2尺(4.24m)(櫓上より)または3間(5.46m)
帆装    3檣 帆3段、帆数10枚
乗員    40名
兵装    大砲10門または24ポンド・カルロン(carron)砲 8門、6ポンド砲 2門、11.5インチ臼砲 2門、二百目玉自在砲 4門
その他    船材:木

日本初の洋式軍艦とありますが竣工は二番目であり、起工が日本初なのです。

 

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