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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

【御朱印】積丹郡積丹町 神威神社

神威神社(かむいじんじゃ)は、北海道積丹郡積丹町大字来岸町10番地にある神社で旧社格は郷社。御祭神は大綿津見神(おおわたつみのかみ)、志那津彦神(しなつひこのかみ)、志那津姫神(しなつひめのかみ)、豊受姫神(とようけひめのかみ)で例祭日は7月17日。

 神威(かむい)の地名由来はアイヌ語で、同音同義の地名は北見枝幸の神威岬や増毛町のカムイエト岬などがあり、何れも人を寄せ付けない大岩崖の岬が特徴です。

 北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では、『神威 カムイエトゥ <kamuy-etu> 神・岬 (僧帽をかぶったような大岩があり、アイヌはこれを崇拝してカムイとし、和人はこれをオカムイと呼び、岬名オカムイとなった。) 〈岬の先の海中には岩礁が多く、また風波の荒れる所で、昔は大難所であった。海中に人の形の巨岩があって、それがカムイ(神)と呼ばれていた。アイヌ時代の舟は、このおカムイ様に捧げ物をして通過していたという。〉』

とあります。

大正6年測図地形図 

神威神社

以下は、北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 源義経公が蝦夷地に落ち延びて、今の神岬村神威岬にさしかかった際に風浪が激しく船を進めることができなかった為、岬の遙か沖合にたつ衣冠姿に見えた神威岩に大綿津見神、志那戸神を奉斎し航海の安全を祈願したところ通過できたと伝わり、アイヌの人々もこれを「カムイ」として尊崇していた(この伝説に付随して女人禁制となる)。その後、松前藩の地頭藤倉近兵衛が神殿を神岬村に創建しアイヌ語の地名を用いて「志屋古丹《しやこたん》明神」、「於賀武意《おかむい》明神」として奉斎し、寛文3年に出稼ぎの漁民が社殿を再建した。文化2年には松前正神主白鳥遠江守が祭主となっている。慶応2年、社殿を現在の来岸村に移し、神威明神と尊称し積丹郡中の守護神として崇敬した。明治3年、本殿拝殿を再建するが社格が無く、明治8年郷社に列せられ大綿津見神社と改称した。明治44年、余別・来岸・神岬・西河の各村社稲荷神社を合祀する。大正4年神饌幣帛料供進神社に指定される。昭和6年10月19日に認可が下り、本殿を青森県産檜材にて改築する。同年8月20日に社名改称を出願、9月15日に許可される。昭和19年、向拝、拝殿、神饌所を改築竣工。昭和21年、宗教法人となる。昭和63年、御鎮座百二十周年記念奉祝祭を斎行した。
【所在地】
〒046-0323 北海道積丹郡積丹町大字来岸町10番地
【例祭日】
7月17日
【祭神】
大綿津見神(おおわたつみのかみ)
志那津彦神(しなつひこのかみ)
志那津姫神(しなつひめのかみ)
豊受姫神(とようけひめのかみ)
【旧社格】
郷社
【合併により合祀された歴史をもつ御祭神】
余別稲荷神社 豊受姫神 創祀不明 明治44年4月15日合祀
来岸稲荷神社 豊受姫神 創祀不明 明治44年4月15日合祀
神岬稲荷神社 豊受姫神 創祀不明 明治44年4月15日合祀
西河稲荷神社 豊受姫神 創祀不明 明治44年4月15日合祀
【社宝等】
刀剣(「中川源治寄進伝松前藩公佩用太刀」)
その他 本社の神殿は、年代工作者共に不詳であるが、桧材に総色彩漆塗、彫刻は浮彫毛彫に金具金箔の配合等善美を尽くしたもので、本道中類例を見ない神殿といわれている。

社号標は平成24年7月吉日建之の新しいもの

社号標隣の説明板には、道の文化財に指定云々と書かれているが、道の文化財リストを見ると無いのである・・・

一ノ鳥居を過ぎると、高さは低いけど注連柱(しめばしら)みたいなのがあります。

なんと驚きの嘉永三戌正月吉日とあり1850年の事です。

 

小さいながらも太鼓橋があり、ここから先は神様の住まう領域を示します。

 

二ノ鳥居(鋼製)

火袋のない石灯籠一対(嘉永二年酉正月吉日とある)

 

手水舎(手水石には明治四年とある)

 

近くには石灯篭の残骸が

右手には無人の社務所

結構きつい勾配の石段

 

石灯籠一対(建立年不明) 奥には破損した石灯篭

 

少し風化を受けている狛犬一対(大正11年7月17日建立)

 

 

 

社殿右側に資材庫

崖の際にある忠魂碑(怖くて裏面は確認できず)

あまり見晴らしはよくありません

御朱印

本務社の美國神社の宮司さんに聞いてみたところ、地元の総代の関係者の頼みで作って間もないようでして、御朱印受けに来たのは私が3人目だそうです。(ダメ元で聞いてみてよかった~)

初穂料は500円。

www.moiwa-orosi.com