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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

新冠郡新冠町 新冠会所跡と三基の墓石

 新冠には江戸時代松前藩によるニイカップ場所があって、アイヌとの交易などを行っていましたが、のちに蝦夷地が幕府直轄領となってからは会所と呼ばれる交易等政務を行う所がありました。

 新冠会所跡は判官館(ピポクチャシ)裏の海岸線にあって、古い地名では会所前という名前がありましたが、そこに行く道も無くJR日高線休止によって線路を歩いていく事が出来たので訪問です。(休止されていなかったら、一生行く事も無かった場所です)

 下の写真の海に突き出した岩山が判官館(ピポクチャシ)で、その下にあるトンネルを抜けてしばらく線路を歩くとたどり着けるはずと、何も情報が無いまま出発です。

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列車が来ないのは確実なので安心してトンネルに突入できますね。

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 トンネルを抜け、チャシの裏側風景も見る事が出来て、上部のV字には朽ち果てた橋があり地形を見てもとてもじゃないけど、チャシには行けない事が再確認できました。

 この岩にある所々の穴が源義経が馬で駆け登ったときの蹄の跡とかいう伝承なんでしょうか?

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 線路は2015年(平成27年)から連続で発生した一連の高波被害の影響か線路がグニャグニャと曲がっていたり、路盤流出で浮いていたりしてました。

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 15分くらい歩いたら右側崖下に草地と小さいお堂があり、ここが会所跡のようです。会所自体の遺構は説明も無くわかりません。

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人為的に整地された段々の地形が分かります。

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 小さい建物の右には墓石の説明板があり、予備知識が無いまま来たので、ありがたかったです。

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墓石の前にはお酒やお供えの落雁やお線香があり、訪れる人がいるのですね。

170年近くも会所があった場所を静かに見守っているようでした。

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左は大崎千蔵墓と刻まれています。

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真ん中は不明

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右も読めません(説明板には石坂某)

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後日、郷土資料館に行ったら説明があり、「大崎千蔵 天保十三壬寅五月」と「性善院浄心堪応居士 石坂氏 安政五戌牛五月」と刻まれているようです。様似町に在る等澍院の過去帳では大崎千蔵、石坂与十郎という武士で階級は足軽だそうです。もう一つの墓標は風化してわからないとのこと。

現在は海岸線が後退して平地も狭いですが、当時は倍以上の平地があった模様です。絵図では会所のほか旅籠や蔵などが立ち並び、ここが新冠の中心地でありました。

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東蝦夷地より国後へ陸地道中絵図 中 新冠会所 文化六年南部藩士楢山隆福が作成

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北海道歴検図 日高州(上) 安政3~5年幕命により北海道、樺太を調査測量した幕吏目賀田(谷文晁の女婿)が各地の沿岸を描いた鳥瞰図。

説明板右には崖上に抜ける道があり、かつては海岸線を通らないで往来した山道だったのですね。

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2019/11/14追記 ヒグマ出没標識と新冠町ヒグマ出没情報

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現地標識に字本町の海岸ってあったから、離れた所だと思っていたらJR鉄橋の所かい!(笑)