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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう ほとんど気楽な食レポが多いですが北海道内のダム訪問・ダムカード収集・神社訪問・御朱印収集にも目覚めてしまいました。

日高郡新ひだか町静内目名 国指定史跡「シベチャリ川流域チャシ跡群」メナチャシと稲田家臣団

メナチャシは、静内市街地から静内川上流に向かった途中の右岸側台地の縁にあって、御殿山チャシまたは文四郎館とも呼ばれています。

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御殿山公園と稲田家臣団

 チャシのある御殿山公園の辺りは徳島藩洲本城代家老稲田家と深い関わりを持った地域であり、稲田家屋敷跡や稲基神社があります。

 明治維新後、徳島藩内の内乱である庚午事変(稲田騒動)を契機とし、1871年(明治3年) 徳島藩筆頭家老稲田家の旧家臣546人が元静内に上陸。その後静内に移住したことから始まり、冬を越える前に保管していた家財道具一式が燃えるなど、多難な苦労をしたことで知られます。稲田家と家臣の物語は、映画化され吉永小百合主演の『北の零年』(きたのぜろねん)として2005年に公開されました。(役者は一流、脚本は三流の酷い映画で、資料提出をした静内在住の某氏も嘆いていた記述を見かけました。)

稲田家屋敷跡

明治4年(1871年)開拓のため静内に移住した元徳島藩州本城代家老稲田邦植(いなだ くにたね)の屋敷がこの地に建てられました。この屋敷には、邦植の弟稲田邦衛(いなだ くにえ)が長く居住し、大正15年(1926年)まで姿をとどめました。 

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 稲田家屋敷跡のレリーフがある路地を進むと高台に出る舗装道路があり、登ったところの右側に御殿山公園があります。入り口付近に駐車をし徒歩で散策しながら奥に進むことに。

最初に目に入ってくるのが稲基神社です。

稲基神社

稲田家先祖代々の祖先が祀られている霊社で、もともとは洲本市の稲田屋敷裏に祀られていましたが、移住とともに明治4年9月にこの地に移されました。

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神社を過ぎ小道をさらに奥に進むと左側に立派な開拓記念碑が。

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この公園になっている広場も全体が御殿山チャシ台地遺跡となっていて縄文(早期)、縄文(中期)、続縄文(前半期)の土器、石刃鏃・石刃、石製品などの遺物が出土しています。

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チャシの手前には立派な松があり圧倒されます。

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 松の根本には平運丸遭難の碑と稲田氏の墓がありますが、墓石のほうは文字がかすれて読みにくくなっています。

 平運丸は明治4年8月紀州周参見浦沖で難破し第二陣の移住者83名が死亡する惨劇がありました。

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平運丸遭難の碑

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加藤氏~(後は読めませんでした)

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稲田氏~之墓、稲田氏植信之墓

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メナチャシ

やっとメナチャシです。

 チャシは丘先式に分類されるチャシでL状の壕が一本と、その内側の区画を割るようにもう一本直線の壕がありヲの字状となっています。壕の内側には掘った土を積み上げた土塁があり、郭内は凹地となっていて戦闘を意識したチャシの作りをしています。

 このチャシの作られた当時は、シュムクル(サルンクル)[胆振から日高北部にかけての太平洋沿岸地域に居住するアイヌ民族集団]と、メナシクル[静内以東の太平洋沿岸地域などに居住するアイヌ民族集団]が接点の地である静内周辺で抗争を繰り広げていて、シュムクルの本拠地でもあるハエクル(ハイクル)首長オニビシがメナシクル首長シャクシャインによって殺害された場所でもあります。

参考図 wikiから

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17世紀アイヌ勢力地図

チャシ説明板

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最初の外壕には太鼓橋が架かっていて奥には稲田家臣団の移住の苦難を表したモニュメントがあります。

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壕の右側端は崖で途切れています。

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外壕の左側は弧を描きながら続いています。

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太鼓橋を渡ると、稲田家主従の苦労を表したモニュメントがあります。

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モニュメントの裏には一条の直線壕があり区画分けされています。 

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郭内は土塁状の内側が掘削したのか凹地となっています。

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壕の外側も土塁状になっています。 

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チャシは少し飛び出した丘の先端にあることから周辺を見渡せる立地だったのでしょうね。アクセスしやすく(藪漕ぎが無く)比較的綺麗な状態で残っている壕だけでも見に来る価値はありました。

 

そのほかのチャシなどはこちら ↓

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