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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう ほとんど気楽な食レポが多いですが北海道内のダム訪問・ダムカード収集・神社訪問・御朱印収集にも目覚めてしまいました。


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函館市 史跡 四稜郭を訪問

昔は全くと言っていい程知られていなかった史跡ですが、TVでも紹介されたようでそれなりに有名になったようですね。

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位置的なもの

主城である五稜郭は亀田川左岸の低い段丘上にあり、亀田川を結んだ南側の防衛ラインは千代ヶ岱陣屋(弘前藩津軽陣屋)がありますが、北側の面が手薄なので亀田川左岸の緩急面に権現台場(旧幕府軍が旧箱館東照宮の境内を野戦陣地化)とともに急造されたのが四稜郭です。

現在の亀田川は、千代ヶ岱陣屋のあたりで南向きに掘削して直線化されてますが、当時は西向きに函館港に注いでいて、近くには重要拠点の一本木関門(土方歳三最後の地)もありました。

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四稜郭とは

函館市陣川町にある、1934年01月22日(昭和9年1月22日)指定の史跡です。

 4つの突起を持つ洋式築城法で造られた堡塁(ほうるい)で、五稜郭北方の丘陵地に旧幕府兵卒200人および近隣住民100人が徴用され、突貫工事にて数日で造られました。

 大きさは東西約100m、南北約70m、幅5.4m、高さ3mの土塁で囲われ四隅には砲座があり、土塁の外側には幅2.7m、深さ0.9mの空堀があります。

 はっきり言って、土塁の規模もかなり小さく防御的にも疑問符がつく気がしますが、北方の赤川村からの街道筋を進軍して来るであろう敵に、砲撃を加えるには此処しか無かったんでしょうね。

 現在は樹木に覆われた当地ですが、当時は多分樹木は無く見晴らしが良かったと思われます。

函館市HPから

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四稜郭び権現台場の戦闘

 明治二年五月十一日、榎本軍側は四稜郭、東照宮方面へは松岡四郎次郎を長とする一連隊、梶原雄之を長とする衝鋒隊、それに砲兵隊を配置し、四稜郭には四つの砲座のうち山側の二座に砲を配置し、更に付近一帯には散兵壕(ごう)を構築するなどして守りを固めていた。また、東照宮境内正面向かって左側段丘上にも砲座が設けられ、小型の大砲が配備されていたらしい。
 『岡山藩記』(要約)には、「五月十一日午前三時、街道に集合した先鋒岡山藩一中隊、徳山藩一中隊、長州藩の臼砲二門は撒隊にて赤川山手台場に進軍発砲したところ、賊は敗走したのでこの台場を占領し、それより神山四稜郭の北方山手より岡山藩精鋭隊一小隊、徳山藩一小隊、東方の山峰より岡山藩三番隊一小隊が攻撃をかけたところ、榎本軍は大、小砲を激しく打ち出し頑強に抵抗、東の山手へ撒隊を廻し挟撃の形勢をみせたので官軍側苦戦となる。この時本道進撃中の福山藩一小隊が増援され、更に四稜郭の南に位置する権現台場(東照宮)を長州藩が攻撃、激戦の後これを占領、ただちに南方より四稜郭の攻撃を開始した。このため四稜郭は南北より挟撃されることになり、榎本軍はついに朝六時ころ四稜郭より壊走した。」とあります。

四稜郭東照宮略図 市立函館図書館蔵

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現地訪問

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一応小さいなりにも1箇所虎口があります

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郭内の様子

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