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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

【御朱印】天塩郡天塩町 天塩厳島神社

正式名称は厳島神社(いつくしまじんじゃ)だが、アチラコチラにあることから便宜上、地名を付けた形で以降呼ぶこととします。

天塩厳島神社(てしおいつくしまじんじゃ)は、北海道天塩郡天塩町川口基線1226番地にある神社で旧社格は郷社。御祭神は市岐島姫命(いちきしまひめのみこと)で例祭日は7月17日。

神社は左隣にいつくしま公園、右隣に道立天塩高校に挟まれた細長い境内ですが、参道は約250mもあり結構な長さです。

天塩町

天塩町は日本最北の大河(一級河川)である天塩川の河口にある街で、付近一帯には先史時代からの住居跡が多数見つかっており豊かな地だったであろうことが伺えます。

 天塩川流域に居た天塩アイヌは石狩や日高ほどの大きな勢力を持つ集団ではなかったが、サハリンを通じて大陸との交易や和人との交易などでその存在を知られるようになり、慶長年間(~1615)に松前藩によるテシホ場所が開設されます。当初は対等の立場による交易だったが、シャクシャインの乱(寛文9年=1669)が鎮圧された後、松前藩による政策の変化や場所請負人となる商人による自身の収益増を目的とした結果、交易から漁場雇という強制労働に変わり天塩アイヌは衰運の一途をたどることになりました。

松浦武四郎『西蝦夷日誌』によると、テシホ場所に文政五年(一八二二)にアイヌは七八軒、四一八人いたが安政二年(一八五五)には四四軒、二〇三人に減少していることをあげ、そのうち浜に住するものは一五軒、六四人で残りは山中に住する。と指摘している。この33年の間にほぼ半減しており、栖原家の場所経営にアイヌの人々は相当の犠牲をしいられていたといえます。

明治維新後、場所制度が廃止され明治20年頃から小樽商人や資本漁業家らによるニシン漁・鮭鱒漁やシジミ漁などで段々と好景気になり漁業は不動の基幹産業として天塩の発展を支え続けたのです。

道庁の植民地選定事業により明治31年天塩川流域原野に農業開拓による団体入植(オヌプナイ、ウブシ、サラキシ、天塩川口)が行われますが、冷涼な気候及び泥炭地という条件は耕作には向かず、木材や家畜による生計に変わっていきます。特に木材は明治30年後半から40年代にかけて天塩材時代と呼ばれ、水産業を抜いて移輸出1位の座を占めていた時期もありました。開拓による村内の森林資源が減少、天塩線鉄道(現宗谷線)の開通(大正10年代)により天塩港への舟運による木材の集積地としての役目を終えることにより、木材景気は大正年代中期から冷え込み天塩の経済は低迷期に入りました。

約3000年前 - 天塩川河口付近に先住民が竪穴建物を建て集落を形成。
江戸時代初期(慶長期) - テシホ(天塩川河口)にテシホアイヌと和人との対等交易地「場所」が開設され、松前藩の役人の常駐開始。
1669年(寛文9年) - シャクシャインの戦い。以降、全道的に松前藩のアイヌ人への政治的・経済的支配が強化される。
1689年(元禄2年) - 松前藩士、蠣崎七之丞、天塩海岸を踏査。
1700年(元禄13年) - 松前藩が蝦夷地全島地図を作り、初めて「テシホ」の地名が掲載される。
1786年(天明6年) - 「テシホ場所」で場所請負制を実施。松前藩より紀州商人が場所請負人に任命され、不平等交易が強まる。
1803年(文化元年)- 天塩厳島神社創建 。
1855年(安政2年)2月 - ロシアの北方進出の対策等の理由から蝦夷地大半が幕府直轄地となり、テシホ場所も同直轄地となる。
1857年(安政4年)6月 - 松浦武四郎の天塩川探査。テシホ及びサコカイシ(作返)に宿泊。
1861年(万延2年) - 畑半右衛門が庄内藩蝦夷地代官に任ぜられ天塩に赴任。
1869年(明治2年)8月15日 - 天塩国6郡が制定。天塩郡発足。
1878年(明治11年) - 天塩村の村名創設。
1880年(明治13年) - 天塩村に天塩、中川、上川三郡を管轄する戸長役場が設置。(この年を天塩町の開基とされている)
1897年(明治30年) - 天塩村の戸長役場管轄から中川、上川両郡を分離。
1903年(明治36年) - 遠別村を分立。
1909年(明治42年) - 幌延、沙流(現:豊富町)2村が分立。天塩村戸長役場が開設。
1910年(明治43年) - 厳島神社が現在地に移転。
1914年(大正3年) - 留萌支庁の管轄下に入る。
1915年(大正4年) - 二級町村制施行。(天塩郡天塩村となる)
1924年(大正13年) - 一級町村制施行。(町制施行し天塩町となる)
1932年(昭和7年) - 更岸干拓工事実施。
1935年(昭和10年)6月30日 - 天塩線(後の羽幌線)、幌延~天塩間、振老・北川口・天塩駅開業。
1936年(昭和11年)10月23日 - 天塩線、天塩~遠別間、更岸駅開業。
1940年(昭和15年)8月2日 - 積丹半島沖地震によって発生した2mの津波により、幌延村内オトンルイ地区(天塩市街近くの天塩川対岸砂丘)の番屋が流され11人死亡。天塩港内も被害を受ける。
1967年(昭和42年)5月1日 - 幌延町との間で境界変更。

天塩の地名由来はアイヌ語から来ており、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では以下の通り。

テシウンイ<tes-un-i>{梁・ある・所(川)}この川口に所々に梁が懸けてあったため。上原熊次郎地名考

*テシウニ<tes-un-i>{梁・ある・所(川)}テシホは本名テシウニの略言。川上五十里の辺りに神が石で作ったという一条の岩の瀬があり、あたかも梁を懸けた様だったため。松浦武四郎

テシシウイ *テシウシ<tes-us-i>{梁・ついている・所(川)}この川底は平磐の地が多く、その岩筋が通って梁柵を結んだ様だったため。松浦武四郎

テオペッシ <tes-o-pet> 梁・多い・川 永田方正地名解・北海道駅名の起源

同リストのコメントはいずれにせよtesに関した名と思われる。とのこと

「東西蝦夷山川地理取調図」 松浦武四郎 安政六年

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き

大正12年測図(天塩)・大正12年測図昭和3年鉄道補入(雄信内)地形図

天塩厳島神社

以下は、北海道神社庁サイトから。

嚴島神社
【由緒】
 天塩厳島神社は文化元年9月1日(1804)紀伊国有田郡栖原村出身栖原角兵衛が水戸藩のサケ・マス漁場経営のために天塩川河岸に運上所を開設する際、守護神として「市杵島姫命」の御分霊を迎えたと伝えられる。明治9年村社と公称し、明治43年社殿を川口基線に建立、同年7月16日に遷座祭を執行した。大正14年12月本殿造営起工。翌15年6月完成。昭和2年9月9日に内務省令をもって郷社の社格に列せられ、さらに昭和15年春拝殿を改築し参道両側に神灯1対を設けた。文化元年当時西エゾ領はまだ松前藩領で水戸藩の領地支配になったのは明治2年8月から2年間だけである。天塩領は松前藩の家老職の家柄である松前内記の知行地で栖原屋は歴代その場所請負人だった。文化元年の天塩場所は6代目角兵衛の支配人栖原彦兵衛の請負で同人が配下に命じてこれを祀ったものであり水戸藩の運上屋とするのは誤りである。
【所在地】
〒098-3312 天塩郡天塩町川口基線1226番地
【例祭日】
7月17日
【祭神】
市岐島姫命(いちきしまひめのみこと)
【旧社格】
郷社
【境内外末社】
境内末社
 稲荷神社 正一位稲荷神社
 金昆羅神社 金昆羅大権現
【特殊神事】
越中獅子舞い(大人十人子供四人)(富山県新湊中町)

社号標脇に神社説明板

 

天塩町指定有形文化財(建造物)
天塩厳島神社社殿(てしおいつくしまじんじゃ しゃでん)
指定:平成二十三年十月二十八日

所有者:天塩厳島神社

所在:天塩町字川口二三六番地一

天塩厳島神社は、文化元年(一八〇四年)の九月に第六代栖原角兵衛が、天塩漁場の高処(海岸通五丁目)に弁財天を祀ったのが始まりとされており、現在地へは明治四十二年九月に移転しています。

神社社殿の建築様式は、北海道特有の「神明造」となっており、切妻屋根妻入の大規模な向拝を設けるのが特徴です。神社は昭和五十二年に改修されましたが、老朽化が進んでいたことから、平成二十二年十二月に「天塩厳島神社社殿修復期成会」(会長 石山 直行)が町民有志により設立され、町民等からの寄付により社殿が改修されました。

この改修を契機に、天塩厳島神社社殿は町民の貴重な文化・歴史的財産として守っていくべき、という機運が高まったことから、有形文化財に指定しました。

天塩町教育委員会

神社移転の事があっさりしすぎなのは隠したかったのかな?

戸長役場便所による社殿破壊

『(前略)此隣地ニ建設シアル天塩村戸長役場ハ、本年五月火災ニ焼失セルヲ以テ今回更ニ建築相成候処、計ラスモ村社々地内ニ両便所ヲ建出シ、拝殿ト両便所ノ屋根トハ双方相接続セミメタルノミカ、拝殿ノ屋根ノ支障スルケ所ヲ切り捨テ、以テ両便所ノ屋根ヲ完全ニ仕揚ケタル次第ニテ、実に不潔排泄物ノ小屋ヲ接続セミテ以テ社殿ヲ汚スノミナラス、譬ヘ小部分タリト雖、社殿ヲ破壊シテ以テ其便所ヲ完全ナラムルニ至リテハ、畏民モ赤甚シキ次第ニ有之候、(後略)』(「厳島神社資料」)

明治36年5月に、海岸通りにあった厳島神社と背中合わせの戸長役場が不祥事で全焼し、同年11月厳島神社創立壱百年祭と前後して役場新築に着手。その折に、あろうことか社殿の屋根を壊して不浄なる大小「両便所」を建ててしまった事に氏子が大激怒し、両便所の位置を変更するか別に社地を交附し神社を移転するかの裁定を道庁に出願した。

神社境内にはおなじみの水準点(一等水準交差点 交35 H=5.083m)

 

一ノ鳥居と手前に石灯籠一対

奉納 大鳥居一基 社標一基 昭和三年十月 天塩木材同業組合

 

鋼製鳥居は昭和五十二年七月建之 天塩建設協会

石灯籠一対 献燈 願主 山村三郎 昭和十五年十月、昭和五十一年九月修復 氏子一同

 

大鳥居を過ぎ石灯籠一対

献燈 大正十一年五月建之 願主 小野玉吉

 

どなたかメガネお忘れですよ!

参道右手に電子基準点「950104 天塩」

 

石灯籠一対 奉納 明治四十二年九月十二日 越前国 金王丸 西崎甚三郎 天塩港 川名粂吉

 

 

石灯籠五重塔 天塩魚商組合 昭和十三年五月建立

 

手水舎 自然石の手水石 奉納 札幌郡円山村 伊野金三郎 昭和七年七月

 

境内末社
 稲荷神社 正一位稲荷神社

風化した古そうな狛狐一対(大正元年十月吉日 奉納者 大久保●吉)

 

境内社のところに社殿説明板あったら勘違いしないか?

 

境内末社
 金昆羅神社 金昆羅大権現

二ノ鳥居(鋼製)は一ノ鳥居と同じく昭和五十二年七月建之 天塩建設協会

太平山三吉神社碑 建立年不明 寄進 細井安長

 

大小二対の狛犬

 

大一対 奉納年不明 天塩港 宮川栄之助

 

 

小一対 奉納年、奉納者不明 結構古そうである

 

 

 

御朱印

社務所にて書置きに日付記入していただきました

www.moiwa-orosi.com