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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

苫前郡羽幌町天売 天売厳島神社

正式名称は厳島神社(いつくしまじんじゃ)だが、アチラコチラにあることから便宜上、地名を付けた形で以降呼ぶこととします。

天売厳島神社(てうりいつくしまじんじゃ)は、北海道苫前郡羽幌町天売弁天53番地にある神社で旧社格は村社。御祭神は市岐島姫命(いちきしまひめのみこと)で例祭日は6月18日。

焼尻厳島神社参拝後、焼尻発9:40のフェリーに乗り約25分で隣の天売島に到着。神社は天売港から1.1km約16分(Googleマップ)とありますが、また騙されました(笑)

焼尻では高位段丘の頂上でしたが、ここは低位段丘の平坦部でホッとします。

参拝後、帰りの13:20発の高速船まで2時間あるので、天売港にある食堂で昼食と思ったら休業中・・・(待合室での2時間、硬い木造ベンチは辛かったです)

帰りのフェリー内では、朝3時半起きという事と疲れから羽幌港に着くまで爆睡して、道中は覚えていません^^;

天売島

焼尻島は苫前郡羽幌町の西約30キロメートルに位置し、ニシン漁など漁業の島として発展してきた歴史を持ちます。武蔵水道を隔てて東方にある焼尻島とともに羽幌町に属し、両島は暑寒別天売焼尻国定公園に指定されています。ウミガラス(オロロン鳥)の日本における唯一の繁殖地であり、「海鳥の楽園」と呼ばれています。気候は対馬海流の影響を受けるため道北の内陸部に比べると温暖である一方で、冬期は湿潤寒冷であるため積雪量は多く北西の季節風も強いです。

明治時代以降、入植者(ニシン漁従事者)による乱伐、山火事の発生により島内の森林の大半を喪失する状態になり、生活に必要な水資源に事欠くような状況となったため、第二次世界大戦後、北海道が治山事業により植林を開始。厳しい自然環境の下、育成は困難を極めたが1980年代から1990年代までにかけて、ようやく成果が見られるようになりました。

1786(天明6)年 六代栖原角兵衛、幕府よりテウレ漁場請負を命ぜられる。

1808年の樺太出兵から帰還中の会津藩士が嵐に遭い、この島に漂着した。
1855(安政2)年 秋田藩の管理地となる。
1859(安政6)年 庄内藩の支配地となり、アイヌと和人の交易は庄内藩がトママイ場所で管理。
1868(明治元)年  明治維新により困窮した水戸藩の支配地となる。
1876(明治9)年 苫前村より天売村が独立。
1879(明治12)年 - 郡区町村制が定められ、焼尻村、天売村戸長役場を焼尻に設置。
1902(明治35)年 - 天売村戸長役場が、焼尻村から独立設置される。
1906年(明治39年)4月1日 北海道二級町村制施行により苫前郡天売村が村制施行し、天売村が発足。増毛支庁に所属。
1914年(大正3年)9月7日  支庁の移転改称により留萌支庁に所属。
1955年(昭和30年)4月1日 苫前郡羽幌町に編入され、現在に至る。

 天売の地名由来はアイヌ語で語義は不明、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では、
チェウレ ceure{?}足{?}右の足首みたいな形で、親指まである姿なので「足」説が出たのかもしれない。和人の時代になって、地図ができて見ると、なるほど右足の形である。それで「足跡」と跡をつけて解説記が書かれるようになったものか。山田秀三地名考

「東西蝦夷山川地理取調図」 松浦武四郎 安政六年

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き

大正12年測図地形図

天売厳島神社

以下は北海道神社庁サイトから。
嚴島神社
【由緒】
 文化元年5月場所の請負を命ぜられた栖原氏が島の鎮護と場所の安全を祈って奉斎したとされる。明治9年村社に列せられた。弁天岬の海岸にあったものを明治36年現在地に移設した。大正7年神饌幣帛料供進神社に指定、昭和21年宗教法人となる。
【所在地】
〒078-3955 苫前郡羽幌町大字天売字弁天53番地
【例祭日】
6月18日
【祭神】
市岐島姫命(いちきしまひめのみこと)
【旧社格】
村社

一ノ鳥居と社号標

昭和十一年十月 奉献 氏子一同

 

左手にかつて使われていただろう社務所

コブだらけの樹木

手水石(奉納 畠山定五郎? 千葉運治? 外船中一同  ※明治39年(1906年)は記録的なニシン大豊漁の年で以降は不漁期と豊漁期を繰り返す

 

狛犬一対 奉納 天賣村八番地支配人 佐藤平吉 外舩中一同 大正三年三月吉日

 

 

 

 

石灯籠二対のうち奥の一対(昭和十三年六月吉祥日建立 天売島氏子一同)

 

 

 

 

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