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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

【御朱印】紋別郡湧別町上湧別 上湧別神社 ~上湧別屯田兵村の守り神~

上湧別神社(かみゆうべつ)は、北海道紋別郡湧別町上湧別屯田市街地10番地にある神社で旧社格は村社。御祭神は開拓三神である大國魂神(おおくにたまのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)で例祭日は9月29日。

上湧別市街地を抜けてすぐに神社はあり、畑作地域の中に大きな敷地の杜がある神社さんです。

上湧別地区

 開拓の祖は土佐藩出身の郷士で、明治15年(1882)に北海道の湧別原野(後の紋別郡湧別町中湧別地区)に入植し同地の開拓に尽力した徳弘正輝で、大阪出身の和田麟吉と共同で、仙台出身の半沢真吉の土地を借りて開墾に取り組んだ。半沢は明治15年(1882)10月、紋別戸長に赴任。和田も同17年(1884)に駅逓業に転じたため、和人として初めて定住し、地域の発展に尽くした徳弘が、上湧別町の「開拓の祖」となった。

湧別兵村の建設

 明治19年(1886)、根室の和田村に設けられた屯田兵第四大隊本部は、同30年(1897)に現役解除となり、新たに野付牛(現・北見市)、湧別の両屯田兵村が設置されたのに伴い、野付牛に移された。 第四大隊は野付牛兵村の第一中隊(端野)、第二中隊(北見)、第三中隊(相内)、湧別兵村の第四中隊(南湧別)、第五中隊(北湧別)で成り立っている。

 建設工事は明治29年(1896)春から始まり、中隊本部、官舎、兵屋の建設や道路の開削、橋梁の架設などの土木工事を一挙に行うものであった。
入植は第四中隊、第五中隊合わせて399戸で、出身地の県別では愛知が70戸で最も多く、熊本43戸、岐阜と山形の各36戸、三重29戸、福島28戸。

明治36年(1903)3月31日、湧別兵村の二個中隊は現役解除となり、兵員全員が4月1日から後備役に編入され、兵籍は旭川聯隊区司令部に移された。

明治37年(1904)2月10日、日露戦争勃発。第七師団にも動員命令が下り、旧湧別兵村にも同年8月4日夕、召集令状が届けられた。現役解除後まだ1年も経過していないので士気は高かったが、兵村内の全戸が戦場に向かうので、残される家族たちの間に悲痛な雰囲気が漂った。

明治37年8月末までに、旭川や札幌・月寒の聯隊に入り満州や朝鮮北部に派遣されました。 満州では日露戦争の最激戦地として歴史的に有名な二〇三高地の戦いに参加している。

明治38年(1905)9月5日、日露戦争が終わり、「日露講和条約」が調印。 召集されていた戸主たちは、大陸から旭川の第七師団に集結し、名寄と白滝の二つのコースに分かれて、懐かしい兵村に帰ってきた。 無事に戻った人たちの家族の喜びは大きかったが、戦死者の家族にとっては、華々しい戦勝祝賀会さえ新たに涙を誘う悲嘆の場となった。

戸主の戦死者は32人で、出生した者の約10%にも達した。 その他に病没者9人、傷病者が100人以上に達した。

 地名由来はアイヌ語で諸説あり、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では以下の通り。
・ユペッ<yu-pet>温泉の川 この川内に温泉があるため。{秦、松浦両氏も同説をとっており、湧別川流域には現在、瀬戸瀬、武利、白滝に温泉がある。}上原熊次郎地名考
・ユペ<yupe>鮫 {チョウザメ}永田方正地名解
・イペオッイ *イペオチ<ipe-ot-i>→<ipe-oci> 魚・豊富である・所{湧別町史は「この川にチョウザメがいたという話はない」とし、同説を採っている。}北海道駅名の起源

同リストでは「諸説あり特定しがたい。」とコメントしています。

大正13年測図、昭和3年鉄道補入地形図 第4中隊を根幹とする南湧別兵村の町並みが残っている

上湧別神社

以下は、北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 明治30年5月29日、屯田兵制の許に、200戸が移住し、同年11月3日(当時の天長節)本村の中枢たる中央練兵場の一隅に木碑を建立し大国主命を祀り幣帛を捧げ祭典を行なった。爾来毎年祭祀を行って来たが、大正10年7月15日摂政の宮殿下(昭和天皇)の本道行啓を記念として、滋に神社を建立し大正15年9月27日官幣大社札幌神社の御分霊を奉安し、本村の総氏神として崇敬し毎年9月29日(屯田兵移住記念日)を例大祭として祭典を行なってきた。これが昭和3年5月内務省2北社第12号を以て許可せられ、昭和8年11月22日道庁告示第1621号を以て神饌幣帛供進神社に指定された。平成8年9月4日御創祀百年奉祝大祭を斎行した。

合併により合祀された歴史をもつ御祭神
 水天宮神社《すいてんぐうじんじゃ》 天御中主神《あめのみなかぬしのかみ》 明治32年9月29日創祀 昭和38年9月1日合祀
 八幡神社《はちまんじんじゃ》 応仁天皇 明治36年創祀 老朽に伴い平成20年4月20日上湧別神社に合祀

【所在地】
〒099-6501 紋別郡湧別町上湧別屯田市街地10番地
【例祭日】
9月29日
【祭神】
大國魂神(おおくにたまのかみ)
大己貴神(おおなむちのかみ)
少彦名神(すくなひこなのかみ)
【旧社格】
村社

社号標(昭和9年5月吉旦建立)

一ノ鳥居裏

奉献 南湧別屯田兵村部落・北湧別屯田兵村部落

ナゴヤ市西区八坂町 石匠 角田六三郎

開村三十年紀年 大正十五年建立

石灯籠一対(昭和7年9月吉日建立)

 

皇太子同雅子妃両殿下 御成婚記念 平成5年5月吉日植樹

侍従御差遣記念(昭和17年7月建立)

 

石灯籠一対(昭和7年9月吉日建立)

 

二ノ鳥居

二ノ鳥居裏

奉 氏子一同   名古屋市西区八坂町 石匠 角田六三郎

献 皇紀二千六百年記念

石灯籠一対(昭和5年11月十日建立)

 

 

手水舎

手水石の奉納年不明 石工は角田六三郎

 

石灯籠一対(昭和14年8月建立)

 

奉祝 御創祀百二十年記念 「敬神崇祖」碑

石灯籠一対(昭和2年9月建立、北兵村第一区一同)

 

 

狛犬一対(大正14年8月建立)

 

 

 

 

 

裏参道の鳥居

 

境外左に忠魂碑(大正2年10月31日建立、帝国在郷軍人会〇〇会)

 

右隣に「苦根楽果」碑(大正4年11月建立)

表には湧別兵村の開拓苦労などが記されていて、裏には南兵村・北兵村の移住者名簿が刻まれている

 

 

御朱印

宮司さんが居ましたので直書きで頂きました

玄関には書置きもあります

www.moiwa-orosi.com