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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

石狩市浜益区川下 川下八幡神社 ~庄内藩ハママシケ陣屋の守り神~

川下八幡神社は、北海道石狩市浜益区川下35番地にある神社で旧社格は村社。御祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)で例祭日は8月15日。

ハママシケ陣屋跡の大手門より下部にある神社で、かつては陣屋内に守り神として鎮座していました。

川下地区

日本歴史地名大系 「川下村」の解説から

川下村
かわしもむら
北海道:石狩支庁浜益村川下村
[現在地名]浜益郡浜益村大字川下村
明治初年(同二年八月―同六年)から明治三五年(一九〇二)までの浜益郡の村。尻苗(しりなえ)村の北にあり、西は海、一部は海浜に沿って浜益川の北に至る。山中に位置し、平地は毘砂別(びさんべつ)川以北の海浜に少しある(状況報文)。近世はカハスモ、ビシャンベツなどと記録される地域。「丁巳日誌」(天之穂日誌)に「カハスモ」と記録され、「人間言也。川下と云事か」とある。「石狩国地誌提要」によると戸数三一(すべて永住)・人口一二七(男七三・女五四)、畑四町四反。大心(だいしん)寺のほか一八六〇年(万延元年)創建の稲荷社、六七年(慶応三年)創建の竜神社がある。「共武政表」によれば二九戸、男七一人・女五五人。


明治35年(1902年)4月1日 川下村、実田村、柏木村、尻苗村が合併して北海道二級町村制を施行し、二級村黄金(こがね)村が発足。
明治40年(1907年)4月1日 浜益村・黄金村が合併し北海道一級町村制を施行し、浜益村(一級村)が発足。
平成17年(2005年)10月1日 浜益村が石狩市に編入。同日浜益村及び浜益郡は消滅。

地名由来は和語で、浜益川の下流にあるからですね。

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き

大正8年測図地形図

川下八幡神社

以下は、北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 文久2年12月、庄内藩がハママシケを支配するために川下に陣屋を設け、屋敷内に八幡神社を建立したことに始まる。翌年の7月15日、荘内より御分霊を頂き奉斎した。その後、庄内藩の陣屋引き揚げにともない荒廃したが、地域住民によって陣屋の門外に奉遷され祀られた。大正2年12月28日、村社に列せられる。
神職は高橋乙吉、南茂市、南和宏と奉仕されてきたが、昭和41年1月24日に南和宏宮司が死去してから現在に至るまで宮司欠員神社となっている。
【所在地】
〒061-3106 石狩市浜益区川下村35番地
【例祭日】
8月15日
【祭神】
誉田別尊(ほんだわけのみこと)
【旧社格】
村社

社号標と隣には陣屋跡の看板

 

裏には大正14年8月12日と刻まれています

 

テッペンには鳥よけの物があり、社号標にあるのは初めて見ました

参道には陣屋案内看板

 

一ノ鳥居

鳥居後ろの左右には古い手水鉢(奉納年不明)

 

 

石灯籠一対(昭和3年11月10日建立)

 

拝殿前の狛犬二対

 

小さい方は年季が入り風化しています(多分創建時の年代かも)

 

大きい方も建立年不明

 

出羽三山碑(鳥海山・湯殿山・羽黒山)

郷里への思いから三山の名を碑に刻み祀ったもので、もともとは陣屋内にあったものを移築したのであろう。

 

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