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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

【御朱印】増毛郡増毛町 増毛厳島神社 ~マシケ場所の歴史とともに歩んできた神社~

正式名称は厳島神社(いつくしまじんじゃ)だが、アチラコチラにあることから便宜上、地名を付けた形で以降呼ぶこととします。

増毛厳島神社は北海道増毛郡増毛町稲葉町3丁目38番地にある神社で旧社格は郷社。御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、保食神(うけもちのかみ)、神龍宇賀之霊神(しんりゅううがのみたまのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、小彦名神(すくなひこなのかみ)で例祭日は7月13日。

神社は、増毛町市街地にある増毛町役場の道路を挟んだ隣にあり、尾根状台地の先端部に当たります。ちょっと狭い境内にはいろいろな古いものがたくさんあり、あれもこれもと見ているうちに時間が過ぎていく場所でした。

増毛町

江戸時代の増毛郡域は西蝦夷地に属し、松前藩によってマシケ場所が開かれていました。
宝永年間(1704-1711)松前氏は漁場の区域を定め、マシケ場所を家臣下国兵太夫の采地としました。
当時のマシケ場所は浜益と増毛にまたがるものでした
1751年(宝暦元年)ころに商人村山伝兵衛がマシケ場所を請け負い、増毛に出張番屋を設けてアイヌとの交易が行われた。
1785年(天明5年)マシケ場所はマシケ場所(増毛)とハママシケ場所(浜益)に分かれる。
1807年(文化4年)南下政策を強力に進めるロシア帝国の脅威に備え幕府直轄領となり、文化6年津軽藩が増毛勤番越冬陣屋を築き警固を行った。
1821年(文政4年)松前藩領に復帰。
天保年間(1830~1844)には、北上したニシンを追って増毛や留萌の各場所への出稼ぎが許可されたため、道南各地から漁民が入地し漁業集落が形成され、「千石場所」とよばれるニシン漁の好漁場であった。
1855年(安政2年)蝦夷地が再び幕府直轄領となり、マシケには久保田藩(秋田藩)が元陣屋を構え、留萌郡以北は庄内藩が留萌・苫前・天塩に出張陣屋を築き、警固を行った。
1857年(安政4年)(寛政8年(1796年)との資料もある)に幕府の命を受けて浜益・増毛両場所請負人伊達林右衛門が自費を投じ増毛山道を開削している。この道は南の石狩国浜益郡から増毛に至る9里(35.3km)余を結ぶ目的で浜益、増毛の両場所請負人伊達林右衛門が自費を投じ工事を行ったものである。この他、増毛山道よりも海側に開削年不詳であるが石狩国浜益郡の千代志別と雄冬を結ぶ雄冬山道(雄冬山道は岩老まで海岸を進み、そこから山に入って増毛山道に合流)も存在した。
1859年(安政6年)の6藩分領以降、増毛郡(マシケ)は秋田藩領、留萌郡北は庄内藩領となっていた。

1897年(明治30年)11月 増毛支庁を設置。
1900年(明治33年)7月1日 増毛郡増毛市街9町、増毛村、別苅村(べつかり)、岩尾村、暑寒沢村(しょかんざわ)、阿分村(あふん)、舎熊村(しゃぐま)が合併、一級町村制、増毛郡増毛町になる。
1914年(大正3年) 支庁を留萌に移転、留萌支庁に改称。
1921年(大正10年)11月5日 留萠線(現留萌本線)が増毛まで開通。
1981年(昭和56年)11月10日 南方の断崖絶壁により開通できていなかった雄冬地区までの国道が開通。
2016年(平成28年)12月:留萌本線の増毛駅-留萌駅間が廃止。

 地名由来はアイヌ語で諸説あり、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では以下の通り。

マシケイ〈マケ〉<mas-ke>カモメの成る〈カモメ・の所〉この海湾一面にニシンが群来る時はカモメで一杯になるため。 〈元来は浜益(浜益毛)の所の名であったが、そこの運上屋をここに移してから、ここが増毛といわれるようになったのだという。〉松浦武四郎〈山田秀三補足説明〉

現増毛のあるところの古い地名はホロトマリといい、明治初年に増毛村に含まれた。
正保日本図(高木崇世芝氏蔵)に「ホロトマリヱソ」、「津軽一統志」および「狄蜂起集書」ともに「ほろ泊 狄あり」、元禄郷帳に「ほろとかり」とあるほか、「ホロトマリ」(「和漢三才図会」所載蝦夷之図、「蝦夷志」)、「ポロトマリ」(西蝦夷地日記)、「ボロトマリ」(西蝦夷地名考)などと記され、また「ほろ泊り」(享保十二年所附)、「ポロ泊」(板本「西蝦夷日誌」)ともある。「地名考并里程記」でも「大いなる澗と訳す」という。「行程記」にマシケの「本名ホロトマリといふ」とある。「西蝦夷地場所地名等控」に増毛之内ポロトマリとみえ、天保郷帳でもマシケ持場のうちとして「ポロトマリ」とする。

「東西蝦夷山川地理取調図」 松浦武四郎 安政六年

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き

大正8年測図、昭和6年鉄道補入地形図

増毛厳島神社

明治9年(1876年)に増毛郡総鎮守の厳島神社となり、当時は港のそばにありましたが、明治14年(1881年)に弁天町4丁目、同26年(1893年)に現在の稲葉町に遷座されました。

以下は北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 宝永年間(1704-1711)松前氏は漁場の区域を定め、増毛場所を家臣下国兵太夫の采地とした。渡島国松前の商人村山伝兵衛は下国兵太夫に代わって運上屋を設け漁業並びに人事に関する諸般を管理支配するにあたり、運上屋の守護神として厳島神社を祀った。安永天明のころ伊達浅之助がこれに代り、後文化年中伊達林右衛門が管理支配する。文化13年7月伊達氏が平素から深く尊崇していた安芸国厳島神社より市杵島姫命の御分霊を奉斎した。文久元年5月社殿を再建し明治9年増毛郡総鎮守として社格を郷社と定め開拓使より御神霊を奉られ、同年7月15日に正遷座祭を執行した。明治26年安芸国厳島神社より御分霊を奉斎し、同年4月24日遷座祭を執行した。明治32年社殿を移転落成し、同年本殿新築の議起り同34年落成遷座祭を執行した。昭和42年、開道百年の遺跡として、道知事より指定を受ける。平成2年、本殿を増毛町有形文化財指定第1号に指定される。
合併により合祀された歴史をもつ御祭神
三吉神社 大己貴神・小彦名神 安政3年創祀 平成8年9月合祀
【所在地】
〒077-0204 増毛郡増毛町大字稲葉町3丁目38番地
電話 0164-53-2306
【例祭日】
7月13日
【祭神】
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
保食神(うけもちのかみ)
神龍宇賀之霊神(しんりゅううがのみたまのかみ)
大己貴神(おおなむちのかみ)
小彦名神(すくなひこなのかみ)
【旧社格】
郷社

【社宝等】
額(7点)(「奉納絵馬」江戸時代後期の作)

社号標(昭和12年建立)

 

一ノ鳥居(弘化2年 (1845)にマシケ場所支配人阿部喜兵衛が奉納したもの)

左:マシケ支配人 阿部喜兵衛 惣番人中 右:弘化二年乙巳(きのとみ)年三月日

 

石灯籠一対(万延2年(1861)3月にマシケ場所支配人黒沢直右衛門が奉納したもの)

 

萬延二辛酉(かのとのとり)年三月建立 マシケ支配人黒沢直右衛門 番人中

 

狛犬一対(手持ち資料には文政年間(1818年~1830年)奉納者不詳とある)

 

 

石碑「当静」(手持ち資料には嘉永2年(1849) マシケ場所支配人阿部喜兵衛とある)

手水舎(手持ち資料では手水鉢 天保2年(1832)マシケ場所請負人伊達林右衛門とある)

  

石灯籠一対(平成26年4月吉祥日建立)江戸後期の面々からいきなり182年も過ぎたのである(笑)

 

狛犬一対(昭和17年建立)

 

 

厳島神社本殿と奉納絵馬の説明板

 

拝殿手前左に領布所

拝殿前の狛犬一対(明治30年7月?建立)ひび割れがすごくこのままだと崩壊しそう

 

 

 

 

拝殿の彫刻は松に鶴

裏面も彫り込まれています

木鼻は獅子と獏で目玉がないとおっかねえ・・・

 

扁額は奥 保鞏(やすかた)書[日露戦争時は第2軍司令官]明治39年(1906)玉川初五郎奉納

 

雲龍之天井画 江戸後期(不詳)狩野昭信 奉納 マシケ場所請負人伊達林右衛門

格天井之絵 昭和10年(1935)平子聖龍画

神輿庫

御朱印

住宅権社務所にていただきました

お忙しい中ありがとうございました。

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