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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

北海道留萌管内 三船殉難事件 慰霊碑訪問 ~終戦後に北の海で散った樺太疎開者1700名の生命~

 三船殉難事件(さんせんじゅんなんじけん)は、終戦(ポツダム宣言受諾)直後の1945年(昭和20年)8月22日に北海道留萌沖にて、樺太からの緊急疎開船3隻(小笠原丸・第二号新興丸・泰東丸)がソ連の潜水艦(L-12、L-19)の攻撃を受け小笠原丸・泰東丸が沈没、第二号新興丸は大破しながらも留萌港に入港した事件で、終戦直後と言いながらも南樺太の日本領ではソ連との交戦が続いており、その状況の中での惨劇である。
犠牲者:1708名以上(死者1558人、行方不明者150人)

小笠原丸【沈没】

逓信省の海底ケーブル敷設船 小笠原丸(おがさわらまる)[1,456トン]
1945年(昭和20年)8月20日に大泊から稚内を経て小樽に向かう予定で、逓信省の職員・家族を含む疎開者1500名ほど乗船し出航。
一般疎開者は稚内で下船するよう勧めがあったが、小樽まで行ける事ができるため降りないものも多く約600名の乗客と約100名の船員・軍人を乗せて稚内を出港。(稚内で下船した者の中に、小樽まで行く予定であったが母親の体調不良により下船した納谷幸喜少年(第48代横綱大鵬)がいる。)
8月22日午前4時20分頃、増毛沖でソ連潜水艦L-12と思われる艦船の雷撃により撃沈された。
犠牲者は乗員乗客638名、生存者は61名。

第二号新興丸【大破】

海軍の特設砲艦兼敷設艦 第二号新興丸(だい2ごうしんこうまる)[2,577トン]
東亜海運が所有する貨物船「新興丸」を徴用したもので武装されており、
12cm単装砲2門、九六式25mm機銃連装4基、同単装6基、九三式13mm単装機銃1基1門、九二式7.7mm機銃2基2門、爆雷投射機2基、爆雷投下台2基を搭載していた。
艦長は萱場松次郎大佐

1945年(昭和20年)8月20-21日の夜に、大泊から小樽に向け疎開者約3600名を乗せ出航。
8月22日午前5時過ぎに、留萌北西沖にてソ連潜水艦L-19と思われる艦船の雷撃を受け、被雷後に浮上砲撃をしてきた潜水艦と交戦し一発を敵艦に命中させたとの説もある。
大破しながらも留萌港に入港することに成功。
犠牲者は死者250名、行方不明100名以上とも言われる。
ちなみに、ソ連潜水艦L-19はこの作戦後に宗谷海峡にて触雷し沈没したとみられる(事件の2ヶ月前に日本海軍が行った宗谷海峡への対潜機雷敷設に第二号新興丸も参加していた)

泰東丸【沈没】

東亜海運所属の戦時標準船2E型(改E型)小型貨物船 泰東丸(たいとうまる)[873トン]
1945年(昭和20年)8月20日夜、大泊から小樽に向け乗員及び疎開者の計780名を乗せ出航。
8月22日午前10時頃、留萌沖にてソ連潜水艦L-19と思われる艦船の浮上砲撃二より機関部への命中弾により沈没。
犠牲者は死者667名、生存者113名。

【慰霊碑】樺太三船慰霊之碑(苫前町)

【慰霊碑】三船遭難慰霊之碑(小平町)

【慰霊碑】樺太引揚三船殉難 平和の碑(留萌市)

【慰霊碑】小笠原丸遭難者殉難之碑(増毛町)

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