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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

留萌郡小平町鬼鹿 鬼鹿厳島神社

正式名称は厳島神社(いつくしまじんじゃ)だが、アチラコチラにあることから便宜上、地名を付けた形で以降呼ぶこととします。

鬼鹿厳島神社(おにしかいつくしまじんじゃ)は、北海道留萌郡小平町鬼鹿港町300番地にある神社で旧社格は村社。御祭神は市岐島姫命(いちきしまひめのみこと)で例祭日は7月3日。

国道239号にあるローソン留萌鬼鹿店の信号交差点から道道鬼鹿停車場線を進んだ右側に駐車場と壊れた鳥居があり、階段参道は途中で左に折れ上がった先に古い御影石の鳥居と社殿があります。

鬼鹿地区

 かつての鬼鹿村(おにしかむら)であり、1869~1874(明治2年8月から同6年の間)から1956年(昭和31年)まで存続した村で、1956年(昭和31年)9月30日 - 留萌郡小平村に編入され消滅しました。

 天明の飢饉以後ニシンの豊凶が、その年によって異なり極めて不安定な漁業となってきて、道南福島の漁民は地元地先でニシン漁をするより収入も大きく、安定しているので、皆先を争って奥蝦夷地に出稼をするようになりました。
これらの漁場のうち増毛、留萌、苫前等の奥場所は殆どが開発されていないので、これに着目した福島を代表する漁業者であった花田傳七(はなだでんしち)、中塚金十郎(なかつかきんじろう)らが、安政年間以降場所請負人栖原六右衞門の同意を取り付け、花田は鬼鹿(小平町)、中塚は天登雁(小平町)で漁業を始め膨大な資産を持つ漁業家となっていきます。
特に花田傳七は、この鬼鹿場所を開拓しこれを足場に宗谷、利尻島等の奥場所の開発と、その成功によって厖大な産をなしていきます。
中塚金十郎は、初期には小樽内場所の熊確でニシン差網を立て、さらに鬼鹿村で隆々辛苦して漁場主となっていきます。

 このように福島村や吉岡村の村民達は幕末以降留萌場所中の天登雁村と鬼鹿村(共に小平町)、苫前場所中の力昼(りきびる)村(苫前町)の三村に集中し永住者も増えていきました。

 鬼鹿の地名由来はアイヌ語で、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では、

オニシカ<o-nis-ka?>雲の上にある{?}昔、ここに雷が落ち雲とともに上ったため。上原熊次郎地名考
オニウシカペッ<o-ni-us-ka-pet?>森林の中を流れている川{?}〈あるいは、オニウシ・カ(森・の上)という地名があったのでもあろうか。〉北海道駅名の起源〈山田秀三補足説明〉

「東西蝦夷山川地理取調図」 松浦武四郎 安政六年ではオニシカ、20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)ではオニウシュカペツとなっていてどっち?

「東西蝦夷山川地理取調図」 松浦武四郎 安政六年

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き

大正11年測図、昭和6年鉄道補入地形図

 2004年12月14日14時56分頃には留萌地方南部を震源とする深さ約9km、規模M6.1の地震が発生しました。
気象庁発表の各地の震度は震度5強:苫前町・震度5弱:羽幌町・震度4:羽幌町焼尻、秩父別町、剣淵町、初山別村
なお、小平町鬼鹿に設置のKnet強震計は1127galを記録し、震度6弱に相当する数値です。
過去にも当地域では度々大きな地震があり、1910年9月8日(明治43年)鬼鹿沖M5.31918年5月26日(大正7年)鬼鹿沖M5.8と起こっています

鬼鹿厳島神社

以下は北海道神社庁サイトから。
嚴島神社
【由緒】
 天明6年松前郡福島の栖原彦右衛門が天登雁村に創祀したと伝わる。明治12年村社となり明治41年鬼鹿村の市街地化により天登雁村より鬼鹿村(現在地)に遷座する。奥場所といわれた留萌地方にあって当社も鰊漁に従事する網元や漁業者の崇敬が厚く、現在も継承されている。明治36年より松前神楽が伝承され、鰊漁華かな時代には盛んに松前神楽が奉納され現在もその活動が盛んである。昭和21年宗教法人を設立、現在に至る。
【所在地】
〒078-3441 留萌郡小平町字鬼鹿港町300番地
【例祭日】
7月3日
【祭神】
市岐島姫命(いちきしまひめのみこと)
【旧社格】
村社
【社宝等】
神楽(小平町指定・「松前」)、札(「移転遷座祭棟」明治36年)、式(「移転遷座奉納神楽」明治36年)、記(「神社由緒」明治41年)、御神鏡(「戦勝祈願神楽奉納」大正11年)、写真帳(「悠紀斎田鰊粕奉納」大正年代)

 

なんか変な風景

石灯籠一対(建立年不明、鬼鹿水産組合建立)モルタルでガチガチに埋められています

 

折れた鳥居の基礎(2015年に参拝された方のブログにはこの後ろに木製鳥居が立っていた)

 

折れた鳥居の柱が一対埋められて建ってます(建立年不明)

もしかして2004年の地震で倒壊?

 

笠木と貫は藪の中に置いてある

道南福島や吉岡からの移住者にとって馴染み深いからね

 

 

古そうな御影石の狛犬一対(建立年不明)

 

 

 

御影石の鳥居(明治25年1月建立)

左側:明治廿五年辰一月 家内安全

右側:奉納 花田傅七

修復されたんですね

(2015年に参拝された方のブログには笠木などが無くなっており隣に置いてあった)

左右に折れた笠置などありました

 

明治神宮鎭座記念碑

波間に兎

木鼻は龍

 

参拝するのに拝殿を開けようとして気が付きました・・・

 

ん?

いやぁぁぁぁぁー! 

右手には社務所がありますが御朱印対応はしていないことである意味有名ですね

帰りまっせ

自らが管理する本務社でさえこの有り様ですから、普段から社務などは行っていないのですかね?

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