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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

苫前郡苫前町香川 苫前水田発祥の地碑(原碑は藤田万助君記念之碑銘)

苫前のトママイ脇陣屋跡の近く国道232号傍にある立派な石碑です。

古丹別川原野における水稲試作を初めて成功させた方であり、北海道稲作史の上でも重要な意味をもつ人物である藤田万助翁(明治28年12月没)を讃える碑

原碑は藤田万助君記念之碑銘なのに、台座と標柱に苫前水田発祥の地とあり、なんだかなあと思いました。

北海道開発局留萌開発建設部『るもい風土資産カード』
苫前町水田発祥の地[道北の農業史に輝く藤田万助翁の偉業をたたえる石碑]から

 苫前町で初めて米の収穫に成功したのは、明治17年(1884年)のこと。当時、誰も成し得なかった道北での水稲栽培に立ち向かい、その偉業を成し遂げた開拓者、藤田万助翁の功績をたたえ、苫前町香川の古丹別川のそばに「水田発祥之地」と記された石碑が建てられています。国道そばの高台にひっそりとたたずむ石碑は明治40年(1907年)に建立され、昭和43年(1968年)に修復再建された後、昭和59年(1984年)に現在地に移設されたもので、国道232号と239号の交差点から古丹別川に架かる苫前橋を渡り、苫前市街地方向に100mほど進んだ山側に建てられています。

 苫前地方の農業は幕末にまでさかのぼり、庄内藩が農業移民の入植によって水稲栽培を試みましたが、成果を上げることはできませんでした。文政5年(1822年)に岩手県盛岡市で生まれ、幕末の安政年間に古丹別川尻で農耕を始めた藤田翁は明治14年(1881年)、水田を開き、水稲栽培を試みます。ところが、当時の北海道は石狩地方でさえ米は試作の段階で、上川や北空知地方では稲作を手掛ける農家すらいない時代。道北という寒冷の荒野の中で、一人手製の農具で水田を作り、わずかな種もみで稲作に立ち向かった藤田翁の努力は並々ならぬものがありました。

 何度も失敗を繰り返す中、その苦労が報われたのが明治17年(1884年)。収量はわずかでしたが、開拓者とともに「白い飯」を腹いっぱい食べ、喜びをかみしめたと伝えられています。藤田翁の功績をたたえる石碑は翁の13年回忌にあたる明治40年に地元農家の有志によって建てられ、現在も道北の農業史に輝く偉業として伝えられています。

 昭和43年(1968年)に修復再建された石碑は高さ約3.5m。そこには建立当時に書かれていた漢文の碑文が今も記されています。内容は「道北地方でも米が作れることを証明した苫前地方の農業の先駆者」というもので、藤田翁の農業にかけた思いをたたえています。


ちなみに、碑銘にある農業博士佐藤昌介は、北海道大学初代総長である。

 

藤田万助翁(明治28年12月没)の墓は庄内藩脇陣屋跡の裏山の藪の中に庄内藩士石川小兵衛の墓と並んであり、現在は誰も訪れることもない場所にひっそりと眠っています。

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