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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

苫前郡苫前町 庄内藩 トママイ脇陣屋跡

 庄内藩トママイ脇陣屋跡は、苫前町(とままえ)古丹別川の右岸川尻高台に設けられた警備所で、防衛の拠点である本陣を元陣屋(もとじんや)というのに対して、支所的な存在を脇陣屋(わきじんや)もしくは出張陣屋(でばりじんや)といいます。

歴史背景

 安政元年(1854)江戸幕府は長年の鎖国を解いて日米和親条約を締結し下田・箱館を開港します。
安政2年(1855)東西蝦夷地を幕府直轄にするとともに、松前・仙台・南部・津軽・秋田の五藩に東西蝦夷地・北蝦夷地(樺太)の分担警備を命じました。
安政6年(1859)には南下政策を進めるロシアに対抗して、さらに会津・荘内(鶴岡)両藩を警備に加え、奥羽六藩に蝦夷地を分領し北方警備を命じ開墾守衛を行わせます。

 出羽荘内鶴岡の荘内藩主酒井忠発は、同年9月に幕府から西蝦夷地のハママシケ(浜増毛、浜益)領、ルルモッペ(留萌)領からテシホ(天塩)領まで、テウレ(天売)・ヤンゲシリ(焼尻)島を領地とし、ヲタスツ(歌棄)領からアツタ(厚田)領までが警衛地として定められました。

藩では早速蝦夷地総奉行・用掛・元締役・箱館留守居役を任命し、翌万延元年(1860)5~6月には現地において幕府箱館奉行から新領地引渡しを受け、その後新領地諸役人や警備開墾の派遣人数を定めています。

 元陣屋(本陣のこと)を置くハママシケ(浜益)には副奉行を筆頭に計193人、脇陣屋を置くルルモッペ(留萌)には計57人、トママイ(苫前)には計161人、テシホ(天塩)には計29人が配置されてました。

 初めは水稲を植えて自給しようとしましたが、稲作には適しないことがわかり、畑作中心となりました。藩の収入は漁業を営む松前の商人(運上屋)が納める税金(運上金)でしたが、後に藩が直接取り立てるようになります。蝦夷地の産物や生活物資を運ぶために船も建造され、酒田との間を往復しました。また他藩と交替で樺太(サハリン)の警備にもあたりました。 

 しかし慶応4年(1868)に戊辰戦争が始まったため、蝦夷地にいた800人あまりは蒸気船で酒田に引きあげることとなりました。 

トママイの脇陣屋は文久3年(1863)に完成したと言われています。

画像は苫前町郷土資料館の展示パネルから

庄内藩トママイ脇陣屋跡

全景(国道232号苫前橋から撮影)

行ってみるとそこには『陣屋の跡』と書かれた標柱一本のみで説明板もなく寂しい限り

 

庄内藩士石川小兵衛と水稲試作成功者藤田万助翁の墓

庄内藩トママイ脇陣屋跡の裏山には、陣屋番頭格だった庄内藩士石川小兵衛(文久2年3月没)の墓と、古丹別川原野にて水稲を初めて成功させた藤田万助(明治28年12月没)の墓が並んである。

苫前町『苫前の宝ガイドブック』から

庄内藩士・石川小兵衛氏は、トママイ陣屋の番頭格として文久元年に赴任し、翌年3月病死。この墓は、文久三年に子息の石川惟一氏が建立したものである。
※番頭格:平時は警備部門の内で最高の地位

また、藤田万助氏は、トママイ陣屋の建設に協力し、古丹別川原野における水稲試作を初めて成功させた方であり、北海道稲作史の上でも重要な意味をもつ人物。この近代苫前史を語る上で重要な二人の墓が、古丹別川尻北岸にある。

藪に囲まれ今では誰も訪れることのない墓にそっと手を合わせる。

庄内藩士石川小兵衛氏の墓

開拓使の開拓判官松本十郎 (庄内藩士で旧名は戸田直温、通称は総十郎、朝敵藩出身である事を隠すために名前を「松本十郎」と改名)が、明治6年(1873)に大判官として札幌に赴任する途中に立ち寄り石川小兵衛の墓に参ったといわれています。

藤田万助氏の墓

 

さてと戻りますか。

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