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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

【御朱印】厚岸郡厚岸町 厚岸神社

厚岸神社(あっけしじんじゃ)は、北海道厚岸郡厚岸町湾月1丁目3番地にある神社で旧社格は郷社。御祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、豊受姫神(とようけひめのかみ)、市杵島命(いつきしまひめのみこと)で例祭日は7月15日前の土・日・月。

神社は国指定史跡の国泰寺隣りにあり、駐車場は左手の空き地に厚岸神社参拝者駐車場の看板がありわかりやすいです。

一ノ鳥居を過ぎ手水舎、二ノ鳥居の先に石段が待っており、見た目以上にちょっとハード。

厚岸町

 厚岸町は北海道東部では最も早く開けたところで、寛永年間(1624年~1643年)には松前藩によるアッケシ場所が開設され、文化元年(1804年)には蝦夷三官寺の一つとして国泰寺が建立されるなど長い歴史を誇っており、天然の良港があることから古くからオランダ船、後にはロシア船やオーストラリア船などの外国船が補給のため度々訪れ、諸外国との接点になってきた点は厚岸の歴史がもつ特質でもあります。

 厚岸に暮らす人々(アイヌ)について記されたもっとも古い記録は、日本人の手によるものではなく、長らくオランダの国立総合公文書館に眠っていた文書があり、寛永20年(1643年)オランダ東インド会社所属のM・G・フリース艦長率いるカストリクム号が厚岸に寄港し、当時の厚岸に様子を航海記録に残したものがあります。

厚岸の地名由来はアイヌ語から来ており、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では、
アッケウイ(アッケウシ)<at-ke-us-i>あつし皮を剥ぐ所 〈オヒョウニレの皮・を剥ぐ・ いつもする・所〉 〈市街地から8キロ西にあったアツケシ沼から名付けられた。〉上原熊次郎地名考〈山田秀三補足説明〉
 アッケ<at-kes-to>楡下の沼 {オヒョウニレ・下の・沼} 昔楡の樹が沢山あり、皮をこの沼に浸したため 永田方正地名解
同リストでは「atに関連する名と考えるのが自然と思われる。」とのコメント。

「歴史年表」

寛永年間(1624年~1643年):松前藩によるアッケシ場所が開設
1643年(寛永20年):オランダ東インド会社所属の航海士、マルチン・ゲルリッツエン・フリース率いる探検船「カストリクム号」が厚岸湾に寄港、8月15日から9月2日までの18日間滞在。アイヌのエカシ、ノイアサック、住民等と交流。薪や水を補給し、湾内などを測量し記録に残す。
1701年(元禄14年):アッケシ場所分割し、「キイタップ場所」(現在の浜中町)開設。
1702年(元禄15年):飛騨屋久兵衛が厚岸などでエゾマツ山開発。
1779年(安永8年):ロシア人イワン・アンチーピンが上陸。
1789年(寛政元年):「クナシリ・メナシの戦い」起こる。
1791年(寛政3年):松前藩が勤場所を設置し、最上徳内が神明宮(厚岸神社の前身)創建。
1799年(寛政11年):東蝦夷地が江戸幕府の直轄となり、官船「政徳丸」厚岸入港。
1800年(寛政12年):伊能忠敬が東蝦夷地測量のため厚岸滞在。
1804年(文化元年): 幕府が「蝦夷三官寺」設置決定(国泰寺創建)。
1821年(文政4年):東蝦夷地が再び松前藩の支配となる。
1831年(天保2年):オーストラリアの捕鯨船「レディ・ロウエナ号」乗組員と詰合や足軽が交戦。
1843年(天保14年):大きな地震と津波発生(『日鑑記』に記載)。
1844年(天保15年):北方警備のため台場設置。
1850年(嘉永3年):オーストラリアの捕鯨船「イーモント号」が末広沖で難破。
1855年(安政2年):東蝦夷地が再び幕府直轄になり、箱館奉行の管轄となる。
1859年(安政6年):厚岸が仙台藩の領となる。
1869年(明治2年):蝦夷地を北海道と改め、11国86郡定める(釧路国厚岸郡設置)。北海道の分領支配により佐賀藩が支配(1871年終了)。
1872年(明治5年):根室出張開拓使庁の管轄となる。厚岸海関所設置(後の厚岸船改所、1887年廃止)。開拓使官舎を転用した「厚岸病院」設置(町立厚岸病院の前身)。
1873年(明治6年):根室支庁厚岸出張所設置(1876年に厚岸分署と改称)。
1879年(明治12年):「郡区町村編制法」により根室支庁厚岸分署廃止し、厚岸郡役所設置(厚岸、釧路、白糠、阿寒、足寄、上川、網尻の7郡管轄し、3ヵ所の戸長役場設置。ただし、厚岸区域は直轄)。
1881年(明治14年):落石村、昆布森村が根室国花咲郡に編入。
1882年(明治15年):開拓使廃止。根室県の管轄となる(三県一局時代)。
1886年(明治19年):3県廃止して札幌に北海道庁設置し、根室支庁の管轄となる。
1890年(明治23年):厚岸郡に太田村設置し、戸長役場置く。諸県の士族(440戸)が屯田兵として入地。大黒島に灯台(厚岸灯台)設置。
1891年(明治24年):釧路郡役所に厚岸郡役所が併合し、湾月町ほか3町7村戸長役場設置。
1900年(明治33年):1級町村制施行。4町7村が合併した厚岸町となる。
1917年(大正6年):釧路—厚岸間鉄道開通(1921年に根室まで開通)。
1923年(大正12年):太田村が2級町村制施行。
1928年(昭和3年):本町地区と真竜地区を結ぶ町営渡船開始。
1944年(昭和19年):大日本帝国海軍大湊警備府厚岸防備隊開隊(1945年廃止)。
1945年(昭和20年):アメリカ軍による空襲を受ける(北海道空襲)。
1952年(昭和27年):「十勝沖地震」発生し、津波観測。
1955年(昭和30年):太田村南半分(本村地区)を編入合併。
1960年(昭和35年):「チリ地震」による津波来襲。
1972年(昭和47年):厚岸大橋完成。
1973年(昭和48年):「国泰寺跡」が国の「史跡」指定。
1992年(平成4年):「正行寺本堂」が国の「文化財」指定。
1993年(平成5年):「釧路沖地震」発生。
1994年(平成6年):「北海道東方沖地震」発生。
2003年(平成15年):「十勝沖地震」発生し、津波観測。
2005年(平成17年):「国泰寺日鑑記」などが「蝦夷三官寺関係資料」として国の「重要文化財」指定。

大正11年測図、昭和11年発行地形図

厚岸神社

以下は、北海道神社庁サイト及び北海道神社庁誌から。

【由緒】
 寛政三年最上徳内が幕府に上書して道東の中心地である厚岸に神社を創立し天照皇大神豊受姫命を祀り神明宮と称した。此れは蝦夷人教化と北辺鎮護の為であって更に寛政十年には近藤重蔵と相議り社殿を改修し市杵島姫命を合祀し海上安全を祈られた。此の時近藤重蔵が石に刻して建てられた碑文及び由来等は歴史上公知の事実である。爾来海上安全大漁豊作町内繁栄の守護神として一般の尊崇する所となれり。文化三年更に社殿を重修し年々六月十五日に祭礼を執行せられた。明治八年より厚岸町の総鎮守とし厚岸神社と称するに至り昭和八年無格社より郷社に昇格し現在は宗教法人に依る神社として公認せられる。
【所在地】
〒088-1114 厚岸郡厚岸町湾月1丁目3番地
【例祭日】
7月15日前の土・日・月
【祭神】
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
豊受姫神(とようけひめのかみ)
市杵島命(いつきしまひめのみこと)
【旧社格】
郷社
【社宝等】
碑(寔是後世東辺第一之要樞泊津也)

太鼓橋があり、これから先は神様が住まう領域であります。

社号標(昭和8年9月6日建立、海軍中将子爵小笠原長生敬書)

右手にきれいな社務所

手水舎と二ノ鳥居

手水石の奉納年は不明

 

ガラス浮き球と一緒に祀られている不明な石碑

 

さてと気合い入れますか

石段上には狛犬一対と三ノ鳥居

狛犬一対(昭和11年10月建立)

 

 

右手に近藤重蔵建立碑文(復元)

傘の大きい石灯籠一対(昭和3年御大典記念とある)

 

授与所

社殿前に石灯籠一対(昭和12年6月2日建立)

 

 

 

5月4日訪問ですが桜が咲き始めですね

 

さてと戻りますか・・・

御朱印

連休中のお忙しい中ありがとうございました。

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