page contents

藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

【御朱印】厚岸郡厚岸町太田 豊受神社 ~旧太田屯田兵村の守り神~

豊受神社(とようけじんじゃ)は、北海道厚岸郡厚岸町字太田村1番地甲43号にある神社で旧社格は村社。御祭神は豊受大神(とようけのおおかみ)で例祭日は8月16日。

厚岸市街地の手前(釧路側)の集落から山の方へ2kmほど行った場所にあり、旧太田屯田兵村の守り神です。神社は鳥居と社殿のみといった寂しさがありました。

厚岸町太田地区

太田地区は厚岸湾から北方約5kmにある根釧台地の南東端に位置する集落で碁盤の目状に配置された道路が特徴的な屯田兵村が基盤となっています。

明治23年(1890)6月、山形・新潟・石川・福井・宮城・和歌山・兵庫・山口八県の士族440戸が移住し太田屯田兵村(おおたとんでんへいそん)が開村。
根室第四大隊第三中隊220戸の南太田村と同第四中隊220戸の北太田村からなる。

屯田兵居住地は南北およそ21町、東西1里余で、一番から八番までの道路と一号から五号までの道路によって碁盤目状に区画され、兵屋は道路に沿って向合って建てられた。
各道路には一棟の事業場が設けられ共同作業場として利用され、両隊が接する四番道路には中隊本部・病院・練兵場・太田尋常小学校があり、厚岸に近い五番道路南端には市街地が設けられました。

第四大隊は先に根室和田に入植した第一中隊・第二中隊と、ここ太田に入植した第三中隊・第四中隊からなり、太田兵村の任務は厚岸港の防衛と千島からの脅威に対処するためで、春から秋にかけ濃霧が多く夏の平均気温も二〇度台と冷涼な気候もあり、作物は育たず入植時から自給自足は困難を極め、厚岸の漁場やその他の職種に出稼ぎに出るほどでした。
兵役のうち、現役三年が終わると扶持米と塩菜料などの官給品が打ち切られることが、その後の生活苦からの離散につながります。(新琴似屯田の一戸あたりの農業生産高が188円だったころ、太田屯田はわずか63円にしかすぎなかった)

明治27年(1894)予備役として日清戦争に出征。
明治30年(1897)屯田兵条例の現役・予備役の「常備兵役」(7年間)を終え、13年間の後備役となります。
明治29~35年での戸数調査ではすでに29戸が生活苦から離村、その後も離村者は続く。
明治37年(1904)日露戦争出征。大田村からは184名出征し戦死37名(内17名は戸主)。戦没者の慰霊碑は報国寺の境内に建てられ、毎年11月に慰霊法要が営まれています。
多くの働き手が戦地へ送られ、激戦となった二〇三高地などでの旅順包囲戦で命を落とし、戸主が帰らぬ人となった家もありその後の離村に拍車をかけました。

 この状態に終止符が打たれたのは、入植時から苦しい生活の中で軍馬・農耕馬として繁殖を行っていたのが、大正時代に入り馬産(軍馬)として成功し、昭和10年には飼育頭数が1,491頭に達するなど道東の馬産地として有名になりました。
およそ半世紀続いた馬産でしたが、戦争の終結や産業の転換を契機に飼育頭数が減少、昭和33年頃には衰退。現在は入植後に肉牛の繁殖を行っていたが大正時代の乳価の高騰により乳牛に転換が図られた酪農が主な産業で、残った入植者たちの子孫も屯田三世や四世の時代になり現在は約一〇〇戸ほど。

沿革
1890年(明治23年)道庁令により厚岸郡に太田村を設置、戸長役場を置く。諸県の士族440戸が屯田兵として入地。太田小学校、北門小学校開校
1891年(明治24年) 太田小学校、北門小学校合併し、太田小学校となる
1897年(明治30年) 太田屯田兵後備役となる
1904年(明治37年) 日露戦争により第7師団に動員下令、後備役屯田兵も充員召集
1916年(大正5年) チャンベツ地区に入植始まる
1923年(大正12年)4月1日 北海道二級町村制施行により厚岸郡太田村が村制施行し、太田村が発足。
1948年(昭和23年) 太田村主畜農業協同組合(現、釧路太田農業協同組合)設立
1950年(昭和25年) 南片無去地区に集団入植
1955年(昭和30年)4月1日 - 村域を二分割し、厚岸郡厚岸町(太田地区)、川上郡標茶町(茶安別地区)にそれぞれ編入し消滅した。

太田の地名由来は珍しく人名から来ており、太田紋助:弘化3年(1846年)厚岸場所の請負人山田文衛門の番人であった南部出身の中西紋太郎とアイヌ女性の間に生まれる。屯田兵設置に関しての働き他数々の功績を認められ兵村に太田の名がつけられる。

20万分1北海道実測切図(明治23年(1890)~)から切り抜き

大正11年測図、昭和11年発行地形図

豊受神社

以下は、北海道神社庁サイトから。

【由緒】
 明治23年6月屯田兵2個中隊440戸(2300余人)が移住したが、新開地のため崇敬すべき神社もなく、当時の中隊長門田見陳秀・岩渕繁隆の両名及び村内有志らが発起人となり、明治24年7月遥拝所を建設し、太田屯田兵村民の氏神として豊受大神を勧請した。明治26年社号公称許可、無格社豊受神社となる。明治30年社殿を新築、昭和14年11月開村50周年記念にあたり、村社へ昇格、現在地に造営、遷座し、昭和27年宗教法人となる。昭和30年太田村は厚岸町に合併するが、当地区の氏神として現在に至っている。
【所在地】
〒088-1131 厚岸郡厚岸町字太田村1番地甲43号
【例祭日】
8月16日
【祭神】
豊受大神(とようけのおおかみ)
【旧社格】
村社

 

御朱印

本務社の厚岸真龍神社にていただきました。

お忙しい中ありがとうございました。

 

www.moiwa-orosi.com