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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

【御朱印】中川郡幕別町 幕別神社

幕別神社(まくべつじんじゃ)は、北海道中川郡幕別町本町148番地にある神社で旧社格は無格社。御祭神は興田別尊(ほんだわけのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)で例祭日は9月15日。

神社は幕別市街地の中にあり、幕別町役場の近所です。猿別川と小さな沢地形に挟まれた場所に神社はあります。

パークゴルフ発祥の地と言うこともあり、隣の河川敷パークゴルフ場では多数の方がプレーしていました。

幕別町

 1889年最初の入植者があって開拓が始まり、1905年(明治38年)には釧路線(現,根室本線)が開通し止若駅(やむわっかえき)が開業。中心市街は初め十勝川の支流猿別川と途別川の合流点にある猿別(停車場が設けられなかった為、以降急速に廃れていった)でしたが、鉄道開通とともに現市街地の止若(やむわっか)に移り、止若は63年幕別と改称しました。今では幕別町札内地区のほうが帯広市と札内川を挟んで隣接しているため発展が著しく、約2倍以上の規模まで市街化が広がっています。

 地名由来はアイヌ語で、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では、
幕別  マウンペッ[マクンペッ]<mak-un-pet> 後(山の方) ・にある(入っている)・川

 明治39年旧5ヶ村を合して村役場を旧幕別(まくんべつ)村内の猿別市街に置いたのが始まりだったが、旧止若(やむわっか)市街が発達したため役場も移転し、昭和38年止若駅は幕別駅に、同41年止若市街も幕別市街と改称された。幕別の名の由来については、大川の分流が山側を回ってまた本流に合している場合に、その分流をマクンペッと呼んでいたようで、疑問点は多いが、根室本線沿いの所を流れていた小流から出た名であったらしい。山田秀三

 止若 ヤワッカピラ <yam-wakka-pira>冷たい・水のある・崖(市街の東北の猿別川下流東岸にあった場所のことらしい)

幕別神社

以下は、北海道神社庁サイトから。
【由緒】
  旧武山市街に移住した数戸の人々が小祠を建て八幡様と称して、明治33年9月15日に祀ったのが当神社の創祀である。明治38年根室本線開通により駅周辺に止若市街が形成され逐年発展するとともに、小祠も止若に移転して両3年祭祀をしていたが、明治40年現在地に移し、大正4年社殿を造営し昭和16年8月30日付内務大臣の認可がおり無格社「止若神社」(現在の幕別神社)となる。昭和17年に有志2名が九州宇佐八幡宮及び出雲大社より各々御分霊を戴き帰り之を奉斎した。昭和26年4月神社本庁に所属したが離脱、昭和28年5月10日より単立神社となっていたが、その後役員が新しくなり新役員のもと万場一致で「神社本庁」に被包括設定が決議され、平成9年2月7日承認され現在に至る。
【所在地】
〒089-0603 北海道中川郡幕別町本町148番地
【例祭日】
9月15日
【祭神】
興田別尊(ほんだわけのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
【旧社格】
無格社

鳥居をくぐり左手に忠魂碑(大正11年建立)と戦没者名之碑

右手には屋根付きのかなり立派な土俵

神楽殿か何か?

参道左手に稲荷神社 御祭神:保食神

2対の石灯籠

手前の石灯籠一対(建立年不明)

 

奥側の石灯籠一対(昭和3年11月10日建立)

 

参道左手に社務所があるが人の気配はない

手水舎(手水石は発泡した穴が無数に空いており火山岩ですね。裏面に昭和廿●年九月吉日とある。)

 

狛犬一対(昭和7年6月吉日建立)

 

 

それぞれの股の間にチビ狛犬が居ました

 

向拝には鶴

木鼻は獏

 

渡り廊下は村社より下の神社では初めて見たかも

敷地内右側にある頌徳碑(昭和30年9月建立)

裏面に幕別町開拓功労者4名(武山土平・國安仁七郎・大塚松藏・田井素)の名前とその功績を讃える碑文

 

御朱印

令和6年4月29日参拝。

社務所や隣接自宅は誰もおらず出かけたのかなと思い次の金刀比羅神社に行った所、金刀比羅神社の御朱印をくださった方に聞いてみたら、今年の一月に宮司さんは亡くなったとの事。郵便受けに送り願いを投函したことを伝えると、総代に連絡を取って伝えておくからとありがたい返事。

本務社になった札内神社で確認してみたら、すぐには実行できないが今後札内神社で御朱印対応するかもしれないとのこと。

上記のことから、現時点では御朱印対応はしておりません。

後日無事、御朱印が届きました。(字体は札内神社宮司の筆)

関係者および札内神社宮司様、お忙しい中ありがとうございました。

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