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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

【御朱印】中川郡豊頃町大津 大津稲荷神社

 正式名称は稲荷神社ですが、アチラコチラにあるので頭に地名を付け大津稲荷神社と記事内では表記します。

 大津稲荷神社(おおついなりじんじゃ)は、北海道中川郡豊頃町大津寿町101番地にある神社で旧社格は村社。御祭神は保食神(うけもちのかみ)で例祭日は7月26日。

 神社のある豊頃町大津は十勝川の河口にある集落で江戸時代から交通や漁場の要衝として栄えていた場所です。豊頃消防団大津分団の建物の向かいに神社はあり、以前は小さいながらも杜に囲まれた境内地でしたが、今回訪問時には伐採されており明るい陽の当たる神社さんになっていました。

豊頃町大津

かつては十勝郡大津村(おおつむら)であり豊頃村に編入され消滅した村でした。

 1906年(明治39年)4月1日 北海道二級町村制施行により十勝郡大津村・長臼村・鼈奴村・十勝村、中川郡旅来村、当縁郡当縁村が合併し大津村が発足。
 1955年(昭和30年)4月1日 村域を三分割し、十勝郡浦幌町、広尾郡大樹町、中川郡豊頃村にそれぞれ編入され消滅した。
大字大津村(一部)・長臼村(一部)、鼈奴村・十勝村 → 浦幌町
大字大津村(一部)・長臼村(一部)・旅来村・当縁村(一部) → 豊頃村
大字当縁村(一部) → 大樹町

以下は豊頃町HPより
 寛政10年(1798)頃には、すでに大津に番屋が配置され、寛政11年には駅逓も置かれていました。文化2年(1805)には大津・釧路間に道路が開通しています。この当時の大津は、漁場や交通の要衝として賑わっていたことが推測されます。
 この頃、ロシアなどの外国船が頻繁に蝦夷地の近海にあらわれるようになり、幕府が北辺の防衛を重視し、これに必要な各種の対策が急速に進められました。中でも道路整備は重要な課題であり、広尾を経て日高に至る道路も整備され、旅宿所・昼休所などの施設が設けられました。
 また、十勝内陸の産業の開拓振興にも意が注がれ、安政5年(1858)には,函館奉行の命を受けた松浦武四郎らが十勝川筋の状況を調査しています。こうして、大津は漁業の発展と共に、十勝内陸開発の門戸として、あるいは海運・道路交通の拠点として大いに発展をとげたのです。

 

大津(おおつ)の地名由来はアイヌ語から来ており、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では、

オホウッナイ<oho-utnay>深き枝川〈深い・枝川〉十勝川枝流の狭い川が数ヶ所で合流し大川となっていた。上原熊次郎蝦夷地名考〈山田秀三補足説明〉
オオホッナイ<oohot-nay> 深{?}・川 元来十勝川の分流だったのでnayと呼んだが、今は本流よりも大きい。(昭和38年の十勝川河口部改修工事で、この大津川が十勝川になり、本来の十勝川は切り離されて、浦幌十勝川となっている。)永田方正地名解

となっており、音は差異があるけど意味はどちらも同じく通じるので、深い川なんでしょうね。

東西蝦夷山川地理取調図_松浦武四郎 著 刊, [万延1 (1860)] 跋から

大正9年測図地形図

大津稲荷神社

以下は、北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 稲荷神社は文政11年、場所請負人福島屋杉浦嘉七が建立し、文政13年(1830)2月祭神江間領長上家公文所より証書を得て創立した。嘉永3年(1850)5月大津字カムマイに於て同人が更に新築し、明治9年(1876)3月村社に列せられる。明治12年(1879)以来、住民が増加したが、当社の他に神社は無く五郡の住民が皆氏子となり、明治24年(1890)9月28日現境内地に移転と同時に新築した。明治38年10月6日改築、昭和58年新築、12月遷座現在に至る。
【所在地】
〒089-5463 北海道中川郡豊頃町大津寿町101番地
【例祭日】
7月26日
【祭神】
保食神(うけもちのかみ)
【旧社格】
村社
【社宝等】
カムイノミの図(道指定・明治4年頃の作)
弁財船の図(道指定)

手水鉢(奉納年不明)には水はなく石が入っています

 

石灯籠一対(金婚記念 昭和12年3月建之 堺千代吉・堺タミ)

 

火袋には電球が仕込んであり明かりを灯すようになっています

 

お祭りのときの授与所なのかな

社殿右手には殉公碑(昭和27年11月建立)

 

御朱印

社殿左手に家があり、社務所と書いた表札はないのですが訪ねて戴いてきました。

 

御朱印ありがとうございます。

 

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