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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

【御朱印】古宇郡神恵内村 神恵内厳島神社

正式名称は厳島神社ですが、あちらこちらにあるので頭に地名を付けて神恵内厳島神社と以後記事内では呼ぶことにします。

神恵内厳島神社(かもえないいつくしまじんじゃ)は、北海道古宇郡神恵内村大字神恵内村81番地にある神社で旧社格は郷社。御祭神は市岐島姫命(いちきしまひめのみこと)
保食神(うけもちのかみ)、大綿津見神(おおわたつみのかみ)、大国主大神(おおくにぬしおおかみ)、崇徳天皇(すとくてんのう)、稲倉魂命(うがのみたまのみこと)で例祭日は7月15日。

神社は、神恵内村役場の向かい神恵内村駐在所の隣りにあり、赤い両部鳥居の奥にある石段と石灯篭の雰囲気が素敵な神社です。

神恵内村

 神恵内村(かもえないむら)は積丹半島中部にある村で、文禄3年にはニシン漁が行われており、慶長8年5月に厳島神社(現在の神恵内村)が創建されています。
江戸時代、松前藩によってフルウ場所が開かれ近江商人田付新十郎らが場所請負人となって、ニシン・アワビ・ホッケ等の漁をしていました。
現在の人口は789人。
 地名の由来はアイヌ語から来ていて、北海道環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課「アイヌ語地名リスト」では、カムイナイ<kamuy-nay>神・川(この辺は昔はフルウであるが今は神恵内と呼ぶ。北から市街へ流れる長屋の沢がたぶんカムイナイであって、それがこの所の名として神恵内となり、大地名化したのであろう。 そのカムイは場所柄、熊だったかもしれない。)とあります。

大正6年測図地形図

神恵内厳島神社

以下は、北海道神社庁サイトから。
【由緒】
 文禄3年(1594)5月、近江国柳川村田付城主田付景春が、3代目兵庫介景輔の3男景豊に奥羽地方の漁民を誘導し、西蝦夷地フウーレ(神恵内)を開発した。慶長8年(1603)5月田付家居城の例に習い、保食神を祭神として創祀。承応元年5月15日、漁業並に航海等に威徳を垂れ給う神霊を祀り将来の隆昌を祈らんと、主祭神に安芸国宮島の厳島宮より市岐島姫大神、配神に播磨国海神社より大綿津見神、讃岐国金毘羅宮より大国主大神を祀る。宝暦2年(1752)5月15日、領主12代松前若狭守資広公より富留(古宇)総鎮守大弁財天の社号を賜る。天明2年(1782)5月、領主松前道広公自筆の神号額を付けられ、松前家崇敬神社21社の格式となる。安政2年(1855)2月、社号を厳島宮とする。明治4年社号を厳島神社と改称す。明治8年郷社に列せられる。明治33年4月21日、神恵内大火の為、社殿を焼失。明治43年本殿、大正元年、幣殿・拝殿を造営。平成10年7月社殿改修現在に至る。
【所在地】
〒045-0301 北海道古宇郡神恵内村大字神恵内村81番地
【例祭日】
7月15日
【祭神】
市岐島姫命(いちきしまひめのみこと)
保食神(うけもちのかみ)
大綿津見神(おおわたつみのかみ)
大国主大神(おおくにぬしおおかみ)
崇徳天皇(すとくてんのう)
稲倉魂命(うがのみたまのみこと)
【旧社格】
郷社
【特殊神事】
神恵内松前神楽保存会

国道に面した鋼製鳥居には松前家崇敬神社であるので丸に武田菱の家紋

社号標(昭和12年6月建立)

 

鳥居脇には神恵内村道路元標

道路元標(どうろげんぴょう)とは、道路の起点、終点、経過地を標示するための標示物。 旧道路法(1919)により各市町村に1個設置することとされ、その位置は知事が定めるものとしていた。

石灯籠一対(建立年不明)

右側の記念碑は神恵内本陣跡碑(運上屋があった場所)

 

石灯籠一対(明治36年7月吉日建立)

 

 

赤い二ノ鳥居は両部鳥居

石灯籠一対(明治30年3月吉祥日建立)

 

 

石灯籠一対(明治26年?5月吉日建立)田付新右衛門はかつての運上家田付家一族かな?

田付氏は近江商人であり屋号は松前で『福島屋』。場所請負人名は代々田付新助を襲名したが、その引退後の名を代々新右衛門とし、松前支店福島屋を営んだ。

 

 

 

狛犬一対(明治44年4月建立)風化作用により丸みを帯びて厳つさはない

 

 

 

御影石の三ノ鳥居(明治41年第3月吉祥日建立)

 

左手には無人の社務所

右手には忠魂碑(裏面:明治三十七八年役戦死、側面:明治三十九年七月建立 神赤軍人家族○○會)

 

手水舎(手水石には明治25年7月とあり)

 

境内の定め板は古くて大正時代のもの? 御朱印は仁木神社にての貼り紙あり

 

御朱印

後日、仁木神社にて御朱印を受けてきました。

初穂料は300円。

www.moiwa-orosi.com