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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう ほとんど気楽な食レポが多いですが北海道内のダム訪問・ダムカード収集・神社訪問・御朱印収集にも目覚めてしまいました。

【御朱印】白糠郡白糠町 白糠厳島神社

白糠厳島神社(しらぬか いつくしまじんじゃ)は北海道白糠郡白糠町岬1丁目1-1にある神社で旧社格は村社。御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で例祭日は7月25日。

正式名は厳島神社ですが、アチラコチラにあるので地名を頭につけて表記しています。

  釧路から西に30kmほどのところにあり市街地に入ってまもなく国道山側に鳥居が見えます。神社参道は警報機も遮断機もない見通しの悪い釧路本線踏切を渡った先にあり、特急も走っていることからちょっとドキドキします。 

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白糠町

 白糠(しらぬか)の地名由来はアイヌ語の「シライカ(シラリカ)<sirar-ika>潮越す[満潮時、川に潮が入ったため。]アイヌ人でありアイヌ語研究者の知里真志保はシララ<sirar>に潮の意味は無く岩の意であると、この説を否定している。」、「シラウカウ(シラルカウ)<sirar-ukaw>岩・重なりあう[岬端の大岩に名づく。]」、「シライカ(シラリカ)<sirar-ika-p>(潮が)岩・を越える・所[古い絵図を見ると石炭岬の先の海中に岩礁が描かれている。岬から街を流れるオクネップ川までの海中が岩礁で、ずっと砂浜続きのこの辺一帯の中に岩礁があったので、この名がついたのであろう。正確には左記の形で、その語尾の-pが略されて呼びならわされたのだろうか。山田秀三補足]」など諸説あって定まっていません。

 白糠の歴史は寛永年間以来(1632年(寛永9年)といわれる)、松前藩によってシラヌカ場所が開かれていて、1669年(寛文9年)にはアイヌの蜂起がおき白糠で13人、音別で15人の和人が殺されます。シャクシャインらの呼びかけによりイシカリ(石狩地方)を除く東は釧路のシラヌカ(現白糠町)から西は天塩のマシケ(現増毛町)周辺において一斉蜂起が行われた。決起した2千の軍勢は鷹待や砂金掘り、交易商船を襲撃した。突然の蜂起に和人は対応できず東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺された。

1800年(寛政12年)には 八王子千人同心組頭として原半左衝門(原胤敦)ら50人が白糠に入ります。ちなみに弟の新助一行は勇払へ入植しました。

北海道苫小牧市勇払 八王子千人同心の墓 - 藻岩颪に豊河の流れ。

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白糠番屋 東蝦夷地より国後へ陸地道中絵図 上 文化6年(1809)南部藩士楢山隆福が作成

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白糠 北海道歴検図 釧路州(上) 安政3~5年幕命により北海道、樺太を調査測量した幕吏目賀田(谷文晁の女婿)が各地の沿岸を描いた鳥瞰図。

1857年(安政4年)江戸幕府により、炭鉱開発が行われ北海道最初の石炭が採堀されます。石炭岬に開坑した白糠炭田は、幕府の函館開港で外国船へ石炭を供給する政策によって安政4(1857)年開発されました。まさに、北海道における炭山開発の歴史的第一歩です。囚人までも入れて採炭した白糠最初のヤマの灯は、炭質の低下などから需要先の外国船からも不評で、わずか7年で消えることとなるのです。
1938年(昭和13年)明治庶路炭鉱が操業を開始
1945年(昭和20年)米軍の空襲受け死者5人
1947年(昭和22年)新白糠炭鉱が操業を開始
1958年(昭和33年)国鉄白糠線建設工事が着手
1964年(昭和39年)明治庶路炭鉱・新白糠炭鉱が閉山
1983年(昭和58年)白糠線が廃止

白糠厳島神社

以下は、北海道神社庁サイトから。

【由緒】
 文化年間(1804~1818)に安芸の厳島神社の分霊を勧請して鎮座したと伝えられている。当時すでに岩船明神・三十番神・稲荷明神を合祀した弁財天社もありかなり古い歴史を持つ。村社厳島神社は今次大戦終了とともに社格を失い、21年宗教法人令により宗教法人厳島神社となるが、26年の宗教法人法の公布・施行により昭和28年3月30日付認証、宗教法人厳島神社となり今日にいたる。この間明治40年8月22日に社殿を改築し昭和13年12月28日にも又昭和57年10月28日にも社殿を改築している。
【所在地】
〒088-0304 白糠郡白糠町岬1丁目1-1
電話 01547-2-2712 FAX 01547-2-5212
【例祭日】
7月25日
【祭神】
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
【旧社格】
村社

手水舎

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原半左衝門縁の地碑があります。

原 胤敦(はら たねあつ、寛延2年(1749年) - 文政10年(1827年))は、江戸時代後期の人物。千葉氏支流原氏の出といい、甲斐武田家の家臣原胤歳の子孫。八王子千人頭。通称は半左衛門。 八王子千人同心組頭として 蝦夷地御用を命じられ配下100名と共に赴任。1800年寛政12年、北方警備と開拓のため自らの一行は箱館から白糠へ、弟の新助一行は勇払へ千人同心をそれぞれ移住させたが、1804年(文化元年)極寒の地のため死者16人が出るなど困難を極めたが功績あって、この年の2月箱館奉行支配調役に任ぜられ配下の者は地役御雇となって各地で警備・開拓に従事した。

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参道途中の踏切は警報機も遮断機もないので注意しましょう

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中段にある手水鉢

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狛犬はちょっと不格好(建立年不明)

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漁港が見渡せる場所は厳島神社らしい立地です。

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社殿右側には以前何かが建っていたらしき階段があります

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社殿左側には車両が来られる道路と小さいお社などがあります

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お社は何が祀られているのか聞くのを忘れました

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皇太子殿下行啓記念の碑

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忠魂碑(昭和3年8月建立)

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御朱印

国道から鳥居をくぐってすぐ左に社務所と駐車場があります。

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宮司さんはちょうどお出かけの準備で外にいましたので、お願いしたところ快諾していただきました。お忙しい中すみません。

初穂料は300円納めさせていただきました。

御朱印ありがとうございます。

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