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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

【戦争史跡】函館山 函館要塞「御殿山第二砲台跡」を訪問

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 明治期に作られた要塞の砲台跡が身近に見られる所で、過去に何度か訪問する程とてもお気に入りの場所の一つです。

 函館要塞は、明治29年頃から仮想敵国をロシア帝国と想定し計画され、明治30年には函館に砲兵大隊が編成されます。明治31年から函館市街と津軽海峡を見渡せる函館山に要塞を作り始め、函館要塞司令部が明治33年に設置されました。

 明治35年までにはその第一期工事は完成したとみられ御殿山第一砲台(二十八糎榴弾砲4門)、御殿山第二砲台(二十八糎榴弾砲6門)、薬師山砲台(十五糎臼砲4門)、千畳敷砲台(二十八糎榴弾砲6門、十五糎臼砲4門)、立待堡塁(九糎速射加農砲4門-内2門は練習用)が配備されました。(「要塞防禦計画訓令綴等」防衛庁防衛研究所蔵)

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二十八糎榴弾砲 台座跡

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砲座の後ろの壁にある丸い穴は伝声管の跡で、壁を挟んで隣の砲座区画と繋がっていて、しゃべると相手によく聞こえますよ。

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函館山第二砲台 大正11年(1922年) 函館市中央図書館蔵

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 大きな二十八糎榴弾砲が写っていますね。二十八糎榴弾砲は対艦用の海岸砲として日本内地の海岸砲台に配備されますが、明治37年8月21日に旅順要塞総攻撃に失敗した陸軍は、本土から急遽榴弾砲6門を旅順に送り二〇三高地をはじめとする攻城戦に絶大な威力を発揮したことでも有名な大砲です。

 ただ、明治37年7月20日津軽海峡に侵入したロシア帝国ウラジオストク艦隊はそのまま太平洋に抜け、同30日、反転して再び津軽海峡を通過し日本海に入った時も、射程が短いこの大砲は(射程7800m)全く役に立たず、海峡封鎖などは無理な話しでした。

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地下砲側庫出入口 

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アーチ状の入り口は埋められています

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この先には砲台出入り口のトンネルがあったのですが、昭和20年の終戦後に米軍によって爆破され通り抜けられません。

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 この砲台は明治35年頃二十八糎榴弾砲6門配備でしたが、昭和3年には演習用砲台4門配備と変更され終戦まで残っていました。

 ちなみに函館山の山頂部地下には、御殿山第一砲台の遺構が残っていて、レンガ作りの通路と入り口が見えます。

 千畳敷砲台跡までは林道をしばらく歩くとあるのですが、遺構内部はマムシが多くあまりお勧めできません。というか行くまで折りたたみ自転車を車に積んで行った方が良いです。

 

ある日の第二砲台跡。山頂付近は雲の中で不気味さ満点。

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