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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

函館市桔梗 三陵郭といわれる場所と比遅里(ひぢり)神社

産業道路と国道5号が交差する場所の七飯側にあり、比遅里(ひぢり)神社の境内にあります。

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参道から土俵及び先端部を見る

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土俵から五稜郭方向の斜面肩

土俵周りの土塁は後年この土俵が作られた時代のものだと思う。だってこんな狭い所に籠もってたら砲弾一発で皆死亡しちゃうもの(笑)

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土俵から大川方向(緩やかに下っていってます)

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土俵から神社社殿裏方向

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土俵から国道方向(七重浜方向)

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御駐蹕之地(ごちゅうひつのち)明治9年7月建立
1876(明治9)年7月の行幸の途中で、明治天皇が一時乗り物を停めた場所。

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碑から現国道沿い大川方向

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交差点側から高台先端部

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境内は介護施設の駐車場化してます

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神社裏から望む対岸方向

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この地が三陵郭だということに対しての否定的考察。

 七飯の大川方面から進撃してくるであろう敵に対して、自らの陣が丸見えで遮蔽物もなく、また、もう一つの予想侵攻方面である七重浜方向が全く見えないこの地で急造台場を設ける理由が見当たりません。
 旧街道交差を抑えるためとかの見方もあるようですが、そもそも敵が来るであろう方向に背を向けて交差点を抑えることに意味はなく、通常の陣を構えるセオリーだと川や谷や斜面なとの自然地形を堀や塁に用いて防御するのが通常です。ここから良く見えるのが四稜郭方向と五稜郭方向なので、逆にそちら側からの防備には有効な場所です。
 そして、いくつかのサイトでも三角の地形の事を書いていますが、ここの高台が三角になったのはすぐ隣を通じる国道5号の改良工事によって後年掘削されたからこうなったのであって、元々は近くを流れる石川の河岸段丘面は一連で続いていたことは明らかです。国道を挟んで向かい側も同じ高さの段丘面があるのも現地に行けば分かります。
 そして神社の境内というのは比較的土地の改変がない事からよく水準点も置かれる程で、斜面の上部肩には胸壁すら見当たりません。
 小さな急造陣地が、ある文書の絵図にありその形が三角形をなしていたことから、三陵郭と言ってるようですが、五稜郭や四陵郭などの名前につられて独り歩きした感もあります。


比遅里(ひぢり)神社

以下は、北海道神社庁サイトから。

【由緒】
 創立年代不詳なるも往昔住民が小祠を建立し祀りたるを安政5年(戌午)年5月当時の本村移住者(多くは加能越地方の人々)の崇敬していた祭神聖徳太子を祀り社殿を再建する。明治9年村社に列せられる。社殿は初め同字24番地に建設したが、同地が鉄道敷地になり、明治34年現在地に改築奉遷する。大正4年神饌幣帛料供進神社に指定される。

【所在地】
〒041-0801 函館市桔梗町201番地
電話 0138-41-5467(亀田八幡宮) 
【例祭日】
9月3日
【祭神】
聖徳太子(しょうとくたいし)
素盞嗚命(すさのおのみこと)
【旧社格】
村社

【社宝等】
境内の赤松林

 

 www.moiwa-orosi.com

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