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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

函館市鍛治町 鍛冶稲荷神社

鍛冶稲荷神社(かじいなりじんじゃ)は北海道函館市鍛治2丁目14番19号にある神社で旧社格は村社。御祭神は宇迦魂命(うかのみたまのみこと)で例祭日は9月4日。

正式名は稲荷神社ですが、通称の鍛冶稲荷神社をここでは表記させてもらいます。

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鍛冶村

現在は函館市鍛冶ですが、以前は亀田村の一部であり更に前は鍛冶村といっていました。また、ややこしくなりますが鍛冶村以前は鍛冶屋村であって、名前の通り和人の鍛冶屋が居た集落でありました。

そしてこの鍛冶屋村から起きた事件が、蝦夷地を揺るがす抗争に繋がります。

【コシャマインの乱】康正2(1456)年に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起。

康正2(1456)年のアイヌの蜂起の発端について『新羅之記録』には、「中比(なかころ)内海の宇須岸(箱館)夷賊に攻め破られし事」とあって、次のように記録している。
《志濃里の鍛冶屋村に家数百有り、康正二年春、乙孩(おっかい、アイヌの男)来て、鍛冶に劘刀(まきり)を打たしめし処、乙孩と鍛冶と劘刀の善悪、価を論じて、鍛冶劘刀を取り乙孩を突き殺す。之に依て夷狄悉く蜂起して、康正二年夏より、大永五年春に迪(いた)るまで、東西数十日程の中に住する所の村々里々を破り、者某(しゃも、和人)を殺す事、元は志濃里の鍛冶屋村に起るなり。活き残りし人皆松前と天河とに集住す。》
とあり、この騒動の直接の動機は、あるアイヌが和人の鍛冶屋に打たせた小刀の利鈍や価格について口論となり、ついに無法にも鍛冶屋がその小刀でアイヌを刺し殺したことが原因であるとするところから考えると、これまでの交易における、和人の供給する物資の粗悪化や不等価交換に対する、永い間の累積した不信と反感とが、この事件を導火線として期せずして爆発したものであった。

函館市史 亀田市編から

 鍛冶村の地名に関係がある最初の文献は『新羅之記録』で、「志濃里の鍛冶屋村に家数百有り」と記されている。当時の地図や記録は主として海岸部より記されていないため、「志濃里」という地名が示す場所は海岸地域に限られているように見られるが、鍛冶屋は焼入れのために良質の水を求め、塩風をきらうところから、主に内陸部に居を構えることや、後代の鍛冶村が内陸部に位置するところから、現在の函館市志海苔町付近から鍛治町、神山町付近一帯の地域を示すものでないかと思われる。
 「家数百有り」とまでいわれるほど栄えていた鍛冶屋村も、康正二(一四五六)年以後の蝦夷との戦いによりすっかり荒廃し、後一〇〇年間は和人居住者を失ってしまった。
 その後松前氏による統一事業が進み、蝦夷地が平定され、再度和人が渡島地方の海岸部に、漁業のために居住するようになり、以前鍛冶屋村と言った地域にも本州方面から移動して来る者が出てきたようである。

鍛冶村時代

1456年(康正2年)、蝦夷との戦いにより、のち約100年間は和人の住居者が途絶える。
1579年(天正7年)に陸奥国三戸郡三戸町より兄弟2人が移住して鍛冶を始める。
1582年(天正10年)に小柳善右衛門が津軽地方より移住。

龜田村、亀田町、亀田市時代

1902年(明治35年)4月1日、合併し、北海道二級町村制龜田村の一部になる。龜田村大字鍛冶村。
1931年(昭和6年)、龜田村字鍛治[8]村に改められる。
1962年(昭和37年)、龜田村が亀田町になり、亀田町字鍛治に改められる。
1967年(昭和46年)、亀田町が市政施行して亀田市鍛治町に改められる。

函館市時代

1973年(昭和48年)、亀田市が函館市に合併されて函館市鍛治町に改められる。

鍛冶稲荷神社

以下は、北海道神社庁サイトから。

【由緒】
 慶長4巳亥年、小柳善右ェ門の祖善右ェ門と云う者、山城国稲荷山より分霊を受け当村に小祠を建立して之に安置、後村民協議の上村の鎮守の神とする。明治9年村社に列せられる。明治42年2月社殿改築出願、明治44年8月同村大字神山村村山稲荷神社合祀の議北海道庁に出願、同45年5月6日合祀済の上届出、その後神山稲荷社は神山地区人口増により、昭和42年元の神山村に奉遷する。

【所在地】
〒041-0852 函館市鍛治2丁目14番19号
電話 0138-41-5467(亀田八幡宮) 
【例祭日】
9月4日
【祭神】
宇迦魂命(うかのみたまのみこと)
【旧社格】
村社

石灯籠と参道内にある大きな木

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手水舎 手水鉢にはカバーが掛けられています。

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傍には狛犬なのか狛狐なのか、わからなくなっている物が置いてあります。

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幹や枝の曲がり具合が立派な赤松です。

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狛犬

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鎮座四百年記念碑(平成11年7月)と蒼林不滅碑(亀田森林組合解散に関する碑、昭和53年7月)

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左:函館水田発祥三百年記念顕彰之碑(平成11年12月)右:日露戦役記念碑(裏面は明治丗七八年戦役従軍者とある。)

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御朱印

右隣には鍛治町会館ですが、同時に社務所のプレートもあります。

普段は無人のようで、偶然通りがかった人にも聞きましたが開いてる日は分からないとの事。

また、本務社は亀田八幡宮ですが、兼務社の御朱印は書かないのでありません。

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