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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

北斗市(旧上磯町)矢不来(やふらい) 北斗市指定史跡 矢不来台場跡

 北斗市矢不来(やふらい)の急傾斜の上にある台場跡(砲台跡)で、幕末期の外国船からの防備を任された南部藩によって築かれました。

 ここは函館湾の入り口にあたり、対岸の函館山の下にあった押付台場と対をなす施設です。ただ、矢不来台場と押付台場の距離は7㎞もあり当時の大砲の射程では悠々と真ん中を船が通過したことでしょう。

 この台場が戦略的価値を上げたのが、官軍が乙部に上陸したのち南下して木古内から函館に進軍する途中の最後の難所であり、これを越えると函館平野が広がるため、重要な拠点でもあります。

 明治2年(1869年)4月29日にこの台場をめぐる激しい戦いが行われ、持ち堪えられなくなった旧幕府軍は五稜郭まで後退しました。江差から函館に抜ける二股口を死守していた土方隊は、矢不来台場が突破されたことを知り、自分たちの退路がなくなる恐れから五稜郭へ退却しました。

 ここを突破されたことが箱館戦争の最終局面に向かうターニングポイントとなりました。

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 以下は北斗市のHPから

 北斗市指定文化財(記念物)史跡 矢不来台場

所 在 地:北斗市矢不来356~359
所 有 者:笹 谷 君 子
指 定 面 積:57,500㎡
指定年月日:平成18年2月1日(旧上磯町指定:昭和39年10月1日)

 箱館戦争の際、最大の激戦地となった地である。箱館の押付台場と相対し、箱館湾を固める意味で既に前幕領時代(1799~1821)に構築され、南部藩が守備したという。
 安政元年(1854)、幕府直轄となり、箱館奉行 竹内保徳らにより、ここの増強が幕府に上申された。
 明治2年(1869)、幕府脱走軍(榎本軍)がこの土塁を修築し、大鳥圭介以下500名がここを固めたが、同年4月の官軍の猛烈な攻撃に遭い、激しい戦いののち、ついに脱走軍は敗退せざるを得なくなり、七重浜まで退却した。この戦いで衝鋒隊長・天野新太郎以下、死傷者70余名を出したという。
 現在、第一台場と附属火薬庫跡(前幕領時代構築)、第二台場(幕府脱走軍構築)の遺構が確認されている。

 

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 狭い道には車を停める場所も無く、ここから写真を撮るだけにしておきました。

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 対岸の函館山の下に押付台場がありました。 

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 道路上から見て気になってたのが、上部の尾根が伐採されているようなので、衛星写真で確認したらやっぱり・・・

切り出し重機の走行跡もあり、もしかしたら台場の遺構の一部は破壊された模様。現在、北斗市の教育委員会に問い合わせ中です。

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追記:2019/7/2

北斗市教育委員会 社会教育課 様から返信のメールがありました。

” お問い合わせいただきました矢不来台場跡についてですが、
現地および現況を当委員会で確認し、現在、遺跡・遺構の
現況の保全ならびに修復のための対策を進めているところで
あります。
 ご心配をおかけして申し訳ございませんが、当委員会と
しましても最善を尽くす所存でおります。
 このたびは、ご連絡まことにありがとうございました。”

やはり一部破損があったのですね。

市の指定遺跡にもなっていることから、今後良い状況になることを期待いたします。

www.moiwa-orosi.com