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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう ほとんど気楽な食レポが多いですが北海道内のダム訪問・ダムカード収集・神社訪問・御朱印収集にも目覚めてしまいました。


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【御朱印】二海郡八雲町 山越諏訪神社

山越諏訪神社(やまこしすわじんじゃ)は北海道二海郡八雲町山越201-1にある神社で、神社本庁に属さない北海道神社協会の神社です。御祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)で例祭日は7月19日。

 2016年(平成28年)8月の台風10号による風倒木により社殿などが損傷し、氏子会および住民からの寄付金2800万円をかけ、損傷した屋根や梁、装飾などを道南杉やヒバを使って修復し、2017年(平成29年)6月に完成しました。同年7月19日には御鎮座二百十年 社殿修復奉祝大祭を行ないました。

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山越

 山越(やまこし)は古くは山越内(やまこしない)といい、地名はアイヌ語由来で「ヤナイ<yam-kus-nay>栗(を拾うために)・通行する・川」から来ています。明治2年(1869)松浦武四郎の「北海道々国名撰定上書」に、『本名「ヤムウシナイ」にして栗多き沢の義、「ヤム」は栗、「ウシ」は多し、「ナイ」は沢なり、「ヤム」を「ヤマ」と呼事敢て不審にあらず、越後蒲原(カマハラ)和抄名 加麻を加武音便に呼候例御坐候、則蝦夷地にて今山越内と呼候様に成居候、又休越(ヤムクシ)、止釧(ヤムクシ)等も可然奉存候。』とあり、享和元年(1801)に滕(トウ)知文の著した「東夷周覧」には、『ヤムクシュナイ「ヤム」は栗なり、「クシュ」は行くことなり、「ナイ」は沢なり、按ずるに此所栗多く生じて、夷人常に栗拾いに行くことあり、故に号けしならん。』と記してあり、そのほか「蝦夷実地検考録」、「東蝦夷回浦図絵」、「蝦夷地順廻日記」などにも山越内について記載されているが、いずれも似たような解説がなされている。

  この地は最北端の関所があったところで、山越諏訪神社の右隣には関所跡の碑と関係する石碑などがあります。

 1801(享和元)年、亀田(現在の函館市)にあった関門が山越内に移され、「山越内関門」が置かれました。この関門は日本最北に位置し、蝦夷地への武器の持ち込みの取り締まりや通行人の往来切手改めが行われましたが、1861(文久元)年に廃止されました。

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大正6年測図地形図

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山越諏訪神社

八雲町『デジタル八雲町史』第13編宗教から
 安政4年(1857)の市川十郎著「蝦夷実地検考録補遺」では、《山越内神社ハ諏訪大明神文化四年勧請という。例年五月十八日神事、社務ハ池田典膳也》などと記されている。

【諏訪神社】
 山越内は寛政12年(1800)に徳川幕府の直轄となり、これまでの運上屋に代わって会所や下宿所(通行家)が設けられ、通行人の改めなどが行われるようになってから急激に開けたところである。
 文化4年(1807)に福山(松前)の人が、漁業の繁栄と住民の氏神として、会所から一丁(約109m)ほど山手に諏訪明神社を創建した。祭神は建御名方之神であった。またこのころには稲荷社もあったが、これは後になって合併されたらしく、松浦武四郎の「東蝦夷日誌」には、《山根に諏訪明神の社「稲荷合殿」有》とあることからも推察される。
 こうして諏訪神社は、住民の氏神として崇拝されてきたが、明治9年(1876)10月郷社に列せられ、名実ともにこの地方の中心的な神社となった。また、大正4年11月には、神饌幣帛料供進神社(一定の額の幣帛料が、県や町村から供進される神社)となり、昭和12年に神殿を改築した。

【円空仏】
 諏訪神社に円空の作である仏像が安置されていることについては、松浦武四郎の「東蝦夷日誌」により、《円空鉈作り座像の薬師如来を安置す》と伝えられてきたが、昭和28年に函館の郷土史研究家「阿部たつを」によって、ようやくその実在が確認された。それによると、仏像は一尺六寸五分(50.3cm)の座像で、背銘に「いうらっふのみさらしのたけ」と判読される文字が刻まれているが、みさらしのたけの部分は自信がないと断わっている。
 また、「戸井町史」の要約によれば、諏訪神社の仏像は、寛文6年7月礼文華の洞穴で作ったものであり、背面に「ゆうらっぷみたらしのたけごんげん」と刻まれていたとし、寛政11年(1799)に幕吏松田伝十郎が蝦夷地調査の幕命を受けて渡道した際、背面に刻まれた場所に納めたものとしている。いずれにせよ、円空作の仏像が当社に現存していることは、郷土史を探る上で意義深いものがある。
 なお、安政元年(1854)当時に、山越内の勤番であった石黒太右衛門が奉納した『鮭』の墨絵も残されている。

 

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石灯籠

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参道は鉄道で遮られていて歩道橋で渡るようになっています。

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階段には腐食穴があって脆くなっています。

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狛犬(昭和10年5月建立)

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手水舎 背後の山は風倒木の影響があったので全部切っちゃいましたね。

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参道を振り返るとこんな感じ

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神社の周りに樹木がないのってやっぱり寂しいものですね。

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御朱印

2017年11月頃だったかな?函館に何回か行く事があり、何の建物だろうって気にはなっていたのですが、新社務所だったのですね。

神社の鳥居がある国道縁に社務所があってそこに駐車できます。参拝時は宮司さんは居なかったけど奥様が対応してくれました。

初穂料は300円。

御朱印ありがとうございました。

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www.moiwa-orosi.com


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