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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう ほとんど気楽な食レポが多いですが北海道内のダム訪問・ダムカード収集・神社訪問・御朱印収集にも目覚めてしまいました。


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【御朱印】二海郡八雲町 落部八幡宮

落部八幡宮(おとしべはちまんぐう)は北海道二海郡八雲町落部332にある神社で、神社本庁に属さない北海道神社協会の神社です。御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)で例祭日は9月15日。

以前は杜に囲まれたお社といった雰囲気だったのですが、社殿改築したとき切っちゃったのでしょうか。

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旧落部村

 落部(おとしべ)はかつてあった茅部郡落部村でしたが1957年(昭和32年)4月に山越郡八雲町に編入され消滅しました。

 地名由来はアイヌ語でオテo-tes-pet>(川尻・梁・川)川尻に魚筍(やな)を掛ける所から来ていて、アイヌが落部川の近くにコタンをつくり、川口に魚筍をかけてサケやマスを捕る生活を営んでいたのをそのまま呼称したものと思われる。しかし発音が難しいので、和人はオテシベまたはオトシベと呼んだ。記録にある文字も、乙志部あるいは落辺などと使われていたが、後に「落部」と一定したものである。

 ヲトシ部という地名も古くは享保年間(1716~1735)の記録で、場所請負制度関係では最古のものとみられる「蝦夷商賈聞書」の中に記されている。

 落部という地名は古く、享保年間(1716~1735)の記録で、場所請負制度関係では最古のものとみられる「蝦夷商賈聞書」の中に記されている。

大正6年測図地形図 地図上に神社記号はありませんね。

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落部八幡宮

以下は、八雲町『デジタル八雲町史』第13編宗教から
 寛政3年(1791)幕府普請役田辺安蔵一行によって書かれたといわれる「東蝦夷道中記」には、《落部 此所二昼休所本陣アリ、八幡ノ宮アリと記されており、和人定住が早かった落部村内には、幕府直轄前から既に神社の造営が進められていたことを物語っている。

 さらに、安政4年(1857)の市川十郎著「蝦夷実地検考録補遺」では、《落部 神社八幡宮享保年中再建、稲荷社安永中再造などと記されている。

【落部八幡宮】
 当社は、誉田別尊を主神として字賀魂神八重事代主神を合祭する。宝暦14年(1764)3月、相木仁三右衛門ほか二戸の渡来とともに、知行主新井田家(当時伊織義知)の内神であった八幡宮を祭ったことにはじまり、安永5年(1776)に落部を本村としたとき、これを氏神に定めたという。(社誌には天明2年<1782>と記録されている)
 社殿は、市街道路(旧国道)から落部漁港に通ずる道路の左側で、旧東流寺と隣り合わせ、海に向かって建てられていたが、大正6年(1917)現在地に移転した。
 明治9年(1876)3月村社に定められるなど、地域住民の崇敬を受けつつ推移し、昭和29年3月に宗教法人となって現在に至っている。毎年9月13日から3日間例大祭が行われ、御釜神事や松前神楽などが奉納されている。
 なお、当社の境内にある稲荷神社は、倉稲魂命を祭り、天明4年に村上八十右衛門という人が、願うところあって創建したものという。初めは旧街道(浜通り)の山手、旧八幡宮よりなお東側にあったものを、大正6年八幡宮と同時に移転改築したものである。
 また、境内には北海道名木「御所の松」がある。

境内にある由緒書も同じようなことが書かれていました。

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二ノ鳥居

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狛犬(昭和20年10月)

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狛犬

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手水舎と奥にある灯篭状のもの

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以前は朱色のお社でしたが変わりましたね。

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右隣には亀塚(昭和49年9月建立)

昭和35年9月28日、同年10月18日落部地先沖合で操業中の漁船が体長3.8mの海亀が漂流しているのを発見し漁業者一同が手厚 く葬り、落部八幡宮境内に海の守護神として亀塚に奉納しました。爾来、漂流して来た亀を全部この亀塚に奉納し、毎年、全漁民挙げて海の守護神亀塚として海上安全と大漁祈願をこめてお祭りしています。

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境内社稲荷神社

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猿田彦尊と彫られた石碑

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御所の松

明治33年(1900)に落部アイヌの長、辨開凧次郎(べんかいたこじろう)が皇太子殿下(大正天皇)のご成婚を祝い、子ぐま2頭を献上した記念に拝領した「御所の松」のうちの1本。昭和11年(1936)に辨開宅から落部八幡宮の境内に移植され、2個の自然石にその由緒を刻み後世に伝えている。

辨開凧次郎(べんかいたこじろう)

1847年(弘化4年)6月 - 1924年(大正13年)10月

 アイヌ民族として初めて東宮御所に参内した人物で、アイヌの家畜商、のちに許可を受けて獣医を兼業した。アイヌ語によるアイヌ名は『エカシバ』(偉大で何でもできうる)。八雲町内にあった落部のコタンに生まれ、20歳で落部コタンのリーダーとなる。当時の獣医にあたる伯楽の活動で周囲から尊敬を受け、また造園家としても活躍した。

 明治35年の八甲田山雪中行軍遭難事件では他のアイヌ数名を率い救助捜索隊として活躍しました。

 黒松内町では、馬の診療に尽力し産業発展に多大な貢献をしたとして昭和63年(没後70年)産業功労者として表彰される。

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辨開が由緒を刻んだとされる石2つ。上部に菱形井桁の家紋と下部にカタカナで書かれたアイヌ語。

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柵内にあるもう一つの石。上部には線による三つ巴の模様が入っていて、下部にはカタカナで書かれたアイヌ語がある。

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忠魂碑(大正6年建立)

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御朱印

参道左側に社務所がありチャイムを押すと対応して頂けます。

最初の参拝時は不在でしたが、後日、函館の帰り道に寄ったら居たので助かりました。

初穂料は300円。

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www.moiwa-orosi.com


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