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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

北海道苫小牧市勇払 八王子千人同心の墓

ここ苫小牧市勇払には江戸時代後期に蝦夷地が外国からの脅威にさらされたため、武州八王子から蝦夷地の防衛と開拓のために入植した人たちがいました。

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勇払地区

 勇払の地名由来はアイヌ語であるが、その解釈ははっきりしていなく古い文献では、津軽一統志は「いふつ」(1670 年)、元禄島絵図でも「いぶつ」(1700 年)であるが、どういうわけか幕末から明治にかけて「ユウフツ」となり、「ユー・プッ〈yu-put〉温泉(川)の・口」と解されるようになった。 ほど近い鵡川の古老たちに聞いて見たら、はっきり「イプッ〈i-put〉それの・口」あるいは「イプトゥ〈i-putu〉それの・その口」で、古い文献の音と全く同じである。(山田秀三「北海道の地名」から) アイヌの時代から勇払川は千歳・石狩方面への交通手段として使われていたことから、〈i-putu〉それの・その口はシコツ(現:千歳)への入り口のことを指しているのではなかろうか。
 勇払川からは600年前のものとされる丸木舟が発掘され、苫小牧市博物館に展示されていて、アイヌの集落跡からは和人との交流を示す通貨や漆器なども発掘され、比較的早い時期に和人の入植が始まってます。

 江戸時代の勇払は東蝦夷地に属し、松前藩によってユウフツ場所が開かれ苫小牧には北前船が寄航することもあり、陸上交通は渡島国の箱館を基点とし道東や千島国方面に至る陸路(苫小牧以西は札幌本道や国道36号、苫小牧以東は国道235号の前身)が東西に、また文化年間には勇払から北の千歳に至る千歳越が通じていました。

 江戸時代後期、国防のため寛政11年(1799年)勇払郡域は天領とされ、翌12年には北方警備の強化を目指した江戸幕府の依頼により、八王子千人同心・原胤敦の弟・新助の一行約50人が移住し苫小牧市の基礎を築きます。(会所が設置される)

 文政4年(1821年)には一旦松前藩領に復し、安政2年(1855年)勇払郡域は再び天領となり仙台藩が警固をおこないました。

 明治時代初期にも勇払郡開拓使出張所も設置され、集落の規模こそ大きくはないが地域の要衝となります。しかし1873年に開通した札幌本道(日本初の馬車道)が、勇払の西方に位置する苫細(苫小牧)を経由することとなり開拓使出張所が苫細(苫小牧)へ移転。交通の要衝としての役割も低下し、徐々に衰退しました。

大正5年測図、昭和10年修正及び昭和19年部分修正地形図

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周囲は耕作に適さない湿地帯及び砂丘が広がっていました。上方には昭和19年に完成した陸軍飛行場がありますね。

 八王子千人同心とは

 八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)は、江戸幕府の職制のひとつで、武蔵国多摩郡八王子に配置された郷士身分の幕臣集団のことである。武田家の旧臣などを江戸幕府が取り込み幕府の直参でありながら、平時は農耕に従事するなど半農民であり、その任務は甲州口の警備と治安維持でした。 

 寛政11年(1799年)に蝦夷地が外国からの脅威にさらされたため、寛政12年(1800)に武州八王子から蝦夷地の防衛と開拓のために、組頭原胤敦(原半左衛門)を隊長に弟新介を副士として同心子弟100人を伴って蝦夷地に入りました。半左衛門は50人を引き連れて白糠へ、新介は勇武津に入り、警備、開墾などに従事しました。さらに千人同心の河西祐助は原隊とは別に幕吏の見習いとして妻子を連れて勇武津に入りました。

 このことが苫小牧市開拓の第一歩となりましたが、移住した同心たちは、苛酷な自然環境などで不毛の原野の開拓は思うようにまかせず、2年目にして死亡する者16名、病にかかり帰郷する者多数出し、入植4年目に開墾地を離れました。

苫小牧市指定史跡 蝦夷地開拓移住隊士の墓

指定年月日:1956(昭和31)年3月10日
所在地:苫小牧市字勇払132番地38
所有者:苫小牧市
管理者:苫小牧市教育委員会

 勇払市街地の外れに位置する史跡公園には、勇武津場所に関わった会所関係の墓石9基10人分、八王子千人同心関係の墓石4基9人分、場所請負人関係の墓石2基7人分、その他不明の墓石3基3人分、合計18基29人分の墓石が祀られています。

 墓石群はかつて勇払原野に散在していましたが、戦後、勇払墓地に集合したもので、最も古いものは八王子千人同心が勇武津に移住した寛政12(1800)年のもので、新しいものは江戸時代最後の慶応3(1867)年に建立されたものです。

 寛政11(1799)年、蝦夷地が外国からの脅威にさらされたため、幕府は松前藩から蝦夷地を召し上げ直轄しました。翌年、八王子千人同心は蝦夷地の防衛と開拓を幕府に願い出て、組頭 原半左衛門(はらはんざえもん)を隊長に弟、新介(しんすけ)を副士として 同心子弟100人を伴って蝦夷地に入りました。 半左衛門は50人を引きつれて白糠へ、新介は勇武津に入り、警備、開墾などに従事しました。さらに千人同心の河西祐助(かさいゆうすけ) は原半左衛門とは別に役人の見習いとして妻子を連れて勇武津会所に入りました。

 移住した同心たちの生活は苛酷な自然環境の中で困難を極め、2年目にして死亡する者16人、病にかかり帰郷する者や病の辛さから自殺する者など多数の脱落者を出し、4年で中止となってしまいました。

 半左衛門や新介は箱館奉行に転じ、残った同心は「地役御雇(じやくおやとい) 」として蝦夷地にとどまりました。蝦夷地開拓移住隊士の墓には、勇武津場所で亡くなった8人の同心と河西祐助の妻、梅(うめ)の 墓が祀られ、苫小牧開拓の先駆者として手厚く保護されています。

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