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藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう 最近ちょっとお疲れ気味。

石狩市 石狩油田跡(八の沢鉱業所跡)に行ってきました。

忘れてるみたいだけど、もしかしたらこれから藪が酷くなって、見えづらくなるんじゃね?ってふと思ったのが石狩油田跡。

何年か前にも行ったんですが、夏の糞暑い日で藪こぎも嫌なくらいでしたから。車で1時間半もあれば行けるからと、即行動した土曜日の午後2時半でした。

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石狩油田

 石狩では江戸時代末期の1858年(安政5年)、箱館奉行石狩詰所の役人荒井金助が、望来(もうらい)海岸に油の浸出をみて山中に油田の存在を確認していたのですが、技術的な問題もあり明治の中頃まで本格的な採掘は行われませんでした。

 1903年(明治36年)横浜のインターナショナル石油会社が本格的な油田開発を始めました。峻別・五の沢でボーリングを行い、数本の良質な油井を掘り当てましたが、埋蔵量が少なく間もなく停滞してしまいました。

 1911年(明治44年)油田は日本石油(株)に譲渡され、以後「日本石油(株)石狩鉱場」と呼ばれるようになり、軽川駅(現手稲駅)隣に北海道精油所を建設し油田からパイプラインを敷きます。

 油田としての最盛期は1929年(昭和4年)で年間産油量1万キロリットル、油井188抗、従業員250人を超えますが、1933年(昭和8年)には、総埋蔵量が少ないため新規の産油のためのボーリングを中止し、その影響もあって年間産油量は5千キロリットルを下回るようになります。

 1942年(昭和17年)戦時体制下の国策により、石油鉱山部門の統一が図られ帝国石油に統合しますが、その頃には産油量も年間3千キロリットル程度に減少してしまいます。

 1945年(昭和20年)7月20日には、米艦載機の空襲目標になり手稲の製油所が攻撃を受け石油タンク7基と工場焼失の被害があります。

 1955年(昭和30年)頃になると年間産油量も1800キロリットルを下回り、5年後の1960年(昭和35年)に58年間に渡る油田の歴史に幕が降りました。

 

地質図_石狩(1958)から切り抜き。

右側に石狩油田とあり油井マークが何箇所もありますね。

左側の海岸付近には厚田油田があります。

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 俊別背斜という褶曲構造の地下に石油が溜まります

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道中の林道は全線舗装されていますが、狭い上にサイクリングの人もいるので通行注意です。

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八の沢鉱業所跡の碑文と小学校の門柱

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このあたりからすでに石油臭がしてきます。

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タールの染みとブクブクとガス?が吹いていますね。

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石狩油田跡

 帰り道のついでに、茨戸油田があったらしい場所の近辺を散策してみましたが、よくわかりませんでしたのでもうちょっと情報収集が必要かな。

衛星写真でこの林が怪しいと思ってたのですが・・・(畑に囲まれてそこだけ林が残ってる)

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なんかのパイプとH鋼はあったけど自噴もないし石油臭も皆無なので違うっぽい。

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あぶら訪問記第1回目はこちら

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