藻岩颪に豊河の流れ。

名前:べえべえ 生息地:ほっかいどうでっかいどうはいどうどう ほとんど気楽な食レポが多いですが北海道内のダム訪問・ダムカード収集・神社訪問・御朱印収集にも目覚めてしまいました。


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札幌市手稲区 札幌市指定史跡 手稲山口バッタ塚に訪問

山口神社で参拝後に、ついでじゃないとなかなか行けない所なので、寄りました。

むか~しむかし一回だけ行ったことがあるのですが、行く道が様変わりしていてちょっとびっくり。以前は焼却炉のある工場脇から行けたのに現在は行けないのですね)

 国道の山口墓地線交差点(信号あり)を曲がるのですが、ちゃんとバッタ塚の矢印看板もあって判りやすいです。

一緒に山口緑地の看板もあります。

看板指示どおりに進んでいくとパークゴルフ場との分かれ道にも看板が。

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到着~。ちゃんと駐車場まで整備されています。

誰もこんなところ来ないんで貸切状態です。

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列状に盛った畝(うね)が特徴的な地形です。

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手稲山口バッタ塚

札幌市手稲区手稲山口324-308にある札幌市指定史跡第1号文化財であり
1978年(昭和53年)8月21日に指定を受けました。

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バッタ塚は十勝地方などにも多く見られ、札幌市内にもいくつか存在したが、同市内において現存するものは手稲山口バッタ塚のみである。

蝗害(こうがい)

 入植以来、苦難の連続であった山口地区の開拓ですが、更に追い打ちをかけたのがバッタの襲来でした。

 明治12、13年頃に十勝で大発生したバッタは大群集となって日高、勇払原野へ移動。そこで群は2つに分かれ、一群は虻田方面へ向かったがもう一群が北上し札幌へ入った。群れが去った後には、すべてを食べつくされた、ただ赤い土と、大量の卵が残されているだけだった。

 この大量の卵。最初は皆、一冬で凍死するだろうと考えていました。しかし、厳寒期の2月に雪を除いて調べたところ、凍死している様子は全くなく、びっくりした開拓使は各地に係員を派遣し防除に努めたが時遅く、また翌年及び翌々年も被害を受けてしまいました。

 バッタの被害状況は「北海道蝗(こう)害報告書」や「開拓事業報告」などに詳しく記録されていますが、山口地区の移住者たちが被害を被ったのは、1882年(明治15年)頃と言われていて開墾まもなくの事でした。

 ようやくの思いで植え付けた作物は全滅し、開拓使や県役所はこのバッタによる蝗害が本州に渡るのを恐れ、バッタ退治のため土地の人々はもちろん近隣の漁夫まで召集させられ多額の費用を投じ対策に乗り出しました。

 そして、この山口村の大浜に近い砂丘がバッタの産卵地であることを発見、その卵を含む表土を剥ぎ取り駆除した後、成虫といっしょに土中に埋め更にその上に泥を盛り上げたといいます。

 この覆土跡が今でも波状の砂丘となって残っていて、その畝状の塚跡に札幌市は1968年(昭和43年)バッタ塚の碑を建立しました。そして1978年(昭和53年)8月21日、この塚跡は札幌市指定文化財による史跡となりました。

 バッタを大発生させたのが自然なら決着をつけたのもやはり自然だった。1884年明治17年)夏は低温で長雨が続き、猛威をふるったバッタも勢力が弱まり大発生は止みました。

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新川左岸堤防側に来てみました。

堤防道路は車止めがあって来られないんですがね。

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小樽内(おたるない)

更に新川を下流に向かうと、廃橋になった小樽内橋が河口に見えます。

明治の頃から昭和40年代にかけて新川右岸側に小樽内(おたるない)集落がありました。現在の小樽の地名の発祥の地です。

地名はアイヌ語の「オタ・オル・ナイ」(砂浜の中の川)に由来しています。

徐々に離れる人が増えて集落はその後消滅しました。

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以前はこの続きの木橋があったのですが老朽化で撤去されたようです。

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昭和36年撮影の空中写真には、まだ集落がありますね。

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昭和63年の写真では消滅しています。

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